三好長治 麒麟。 「三好長慶」細川氏に代わり、政権を樹立した日本の副王。

長宗我部元親について~手短にわかるその生涯と四国統一~

三好長治 麒麟

三好康長は どちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。 なぜなら、康長はのとなっており、近年はの原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。 来年放映予定の 『』でも、主人公がであるからには、 康長も登場することは間違いなく、 ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。 …ってそういうことを言いたいのではないのだが。 しかし、三好康長はの家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に 信長の敵であった。 康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。 しかも臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、 信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。 これこそ四国説の鍵を握る事象であるが、これまたなぜそうしたのかという説明は聞かれない。 ここでいう説明はされているのではないか?という方もいるだろう。 例えば、長宗我部氏との取次であると康長と結んだの同士の対立であるとか、信長は長宗我部氏の勢力伸長を喜ばず、対抗馬の三好氏に肩入れするようになったとか。 しかし、こう言ったところで説明になっているだろうか?例えば、長宗我部氏は織田政権の四国攻めが迫る5月下旬段階でも、基本的には信長の意志に従う姿勢を見せている。 こと惟任光秀が信長の無二のであり、政権の中で重職を担ってきたのは今更言うまでもない。 対して阿波三好氏は、以降でも四国でも滅亡しかかっており、わざわざ肩入れする勢力としては心もとない限りである。 信長の「上意」に基本的に忠実で、後継者信親にを与えている長宗我部氏を穏当に政権内に取り組む手段などいくらでもあるのであり、四国政策から光秀を排除してまで三好氏と結ぶ理由は実は乏しいのではあるまいか。 秀吉と康長の関係を設定し、秀吉・光秀間の対立を見るにせよ、織田政権下での秀吉は四国政策に積極的関与はしておらず、そもそも秀吉と康長に関係があったとしてそのコネクションは何が狙いなのかなど、種々の新たな疑問が浮かぶ。 しかして、それは三好康長がどのような役割を担っていたのかで説明可能なのではあるまいか。 ちなみに三好康長は出家名の三好咲岩(笑岩)でも知られ、信長の家臣に転じた後は還俗して三好康慶を名乗るようになるが、 この記事中では三好康長で呼称を統一する。 1 三好康長がに従うまで 三好康長を紹介ついでに信長に従うまでをざっと追ってみよう。 三好康長は周知の通り三好一族で、仮名は 「孫七郎」、官途名は 「山城守」である。 康長は一般的にの叔父、で言うと長慶の父・の弟とされている。 しかし、の父・三好長秀は永正6年(1509)に亡くなっている。 つまり、康長が長秀の子(元長の弟)とするなら、永正6年(1509)以前の生まれということになるが…。 三好康長の文書上の初見は永禄2年(1559)で、この時すでにに列してはいたが、未だ「三好孫七郎」であった。 こうしたところを見るに康長はこの時せいぜい30歳前後と推測され、長秀の子というのは成り立ちにくく考えられる。 康長の官途名である「三好山城守」は、康長の活動初見に遡る30年ほど前、三好之長の弟・一秀が用いたものでもあり、康長は一秀の子孫ではないかとも考えられるが、確証はない。 さて、三好康長は 「阿波三好家」に属していた。 権と一口に言っても、内実はを支配する 「三好本宗家」と四国を支配する 「阿波三好家」の二元体制であったとは幸氏の研究成果である。 要するに康長の直接の主君はではなく、その弟の (一般には「」として知られる)であった。 「阿波三好家」の本来の任務は四国の支配にあったが、長慶は河内侵攻に四国勢を動員し、畠山氏の分国であった南部の支配を「阿波三好家」に任せた。 これは私の造語だが 「阿波三好家河内」が誕生したのである。 支配の拠点であったのは守護所である高屋城で当初は実休が高屋城主となっていた。 しかし、永禄5年(1562)河内奪還を目指す畠山氏との戦いの中、は戦死する(久米田の戦い)。 直後ので畠山氏を撃滅したため、「河内」は命脈を保ったがトップが消えてしまった。 こうした中永禄5年(1562)11月29日「河内」のたちは、「若子様」(実休の子・三好長治)への忠誠と協力して統治に当たることを誓った。 署名者は篠原長秀、加地盛時、三好康長、矢野虎村、吉成信長、三好盛政、三好盛長、市原長胤、伊沢長綱である。 彼らは原則として対等の立場であった一方、康長が財務を管轄するなど、康長が若干突出するものであった。 康長は実休生存時も単独で禁制を発給しており、当初より河内の中では 別格の存在でもあったのである(事実上、康長が高屋城主の地位を引き継ぐことになった)。 その後の永禄7年(1564)が亡くなり、永禄8年(1565)に長慶を継いだ三好義継やらが将軍を殺害する(永禄の変)。 康長ら「河内」は永禄の変に直接加担はしなかったようである。 しかし、この後とが対立すると、11月康長は長逸らとともに城を襲撃し、三好義継にの排除を脅迫した。 と康長の間には同盟が成立し、協力することになった。 ただ、康長の目的は「河内」の維持で、中央政治を担当する三人衆との役割分担は厳然としており、康長が三人衆より上位となることもなかった。 康長と三人衆はとその同盟勢力に対し戦いを優位に進めた。 だが、永禄11年(1568)が幕府再興を掲げ、とともに上洛してくると、三人衆は敗退して阿波に退去した。 康長も「河内」を放棄し、阿波に下ったと見られる。 「河内」の支配領域には畠山氏が復活し、畠山秋高が守護となって高屋城に入った。 康長と三人衆は支配を諦めたわけではなく、早くも翌12年(1569)正月に上洛して、将軍を襲撃した(本圀寺の変)。 この襲撃は失敗に終わったが、康長の反攻は始まったばかりであった。 翌元亀元年(1570)に幕府の朝倉氏征伐がの離反によって失敗すると、康長と三人衆は活動を活発化させ、と結ぶことで摂津西部を確保した。 康長の狙いは「河内」の再興であった。 精力的に軍事行動を展開し、畠山氏と戦うなど河内南部奪回を目指した。 しかし、徐々に三好方は旗色が悪くなっていく。 元年(1573)になると、の勢力伸長が著しく、、、三好義継が滅ぼされ、三人衆の活動は確認できなくなり、は京都から追われた。 の政権が樹立されたのである。 一方で、河内南部では畠山氏の・遊佐信教が畠山秋高を殺害し、康長は信教と手を組むことで高屋城主に返り咲いた。 康長にとっては、同盟相手がいなくなる一方「河内」の再興に成功していた。 だが、はと結んでいる「河内」を放置するはずもなかった。 3年(1575)4月、信長は攻めと見せかけて、河内南部への進撃を開始し、香西越後守と十河重吉が守る新堀城を落城させた。 守りの要と位置付けていた新堀城の陥落に、康長は戦況の不利を悟り、松井友閑を通じてに降伏した(この時旧主実休秘蔵の茶器である「三日月」を献上している)。 すると、信長はあっさり康長の自身への帰属を認め、河内南部の支配を認めた。 背景としてはが東方で軍を起こしており、信長としても同盟者であるを救援せねばならず、康長に掛かりきりではいられない事情があった(この直後に有名なが起こることになる)。 三好康長としては 願ったり叶ったりの待遇だった。 康長は「河内」を再興したとはいえ、すでに信長に従っていた畠山旧臣たちもおり、河内南部を総じて支配できていたわけではなかった。 それが信長に降伏することで、逆に信長からを与えられて、旧畠山分国をそっくりそのまま手に入れることが出来たのだ(逆に「阿波三好家」としてはの支配地域を全て失ったが)。 康長はいきなりのに列したのである。 2 三好康長の家臣としての活動 臣としての三好康長の最初の活動はとの和睦を、松井友閑とともに仲裁したことである。 3年(1575)12月 康長は友閑とともに和睦を保障する起請文に署名している。 しかし、この和議は信長に敵対する将軍がを調略したことで、翌4年(1576)2月には早くも壊れた。 4月に信長はを討つべく再び出陣し、原田直政(塙直政)、惟任光秀、長岡藤孝、らを包囲陣として配置した。 康長は河内衆を率い、原田直政の軍に属していたようだ。 しかし、5月3日織田軍は先陣を三好康長、2番手を原田直政として木津砦に攻撃をかけたところ、からの猛襲を受け、直政が塙一族らとともに奮戦して討死する傍ら、 康長は逃亡して織田軍は崩壊した。 この敗報を聞いたは急遽出陣し、光秀の籠る砦の窮状を知るや、5月7日兵数が揃わないうちに軍に突撃し勝利した(の戦い)。 の軍勢の鉄砲によって信長自身が負傷して手にした勝利であった。 この戦後処理において、 信長が原田直政の塙一族を粛正したことは、近年有名になってきたところである。 信長は敗北した直政の責任を重く見たのだろう(直政が死んで粉飾決済がバレたという話もある)。 しかし、そもそも敗戦時の先陣を務めていたのは三好康長で、 康長がとっとと逃げたのに比べると直政は奮戦したぶん頑張ったとも言えるのではないだろうか。 この後康長が外交に関わることはなかったので、取次更迭というペナルティはあったのかもしれないが、 康長はその後もの地位を失わず、責任を問われることはなかった。 康長はその後も攻めに動員されつつ、領国となった河内南部の統治を進めていたらしい。 こうした中、康長の旧主である「阿波三好家」は激変していく。 4年(1576)三好長治はかつて阿波を治めていた細川讃州家の子孫・細川真之や一宮成助、伊沢頼俊に離反され戦死した。 一方で阿波の勢力全てが真之らに従ったわけではなく、三好越後守や矢野守らは「阿波三好家」の統治を維持せんと、本拠地である勝瑞城を確保した。 この内紛は基本的に阿波の国内問題で、どの勢力がどの外部勢力と手を結ぶのか、各方面から注視されていた。 の四国政策とは上洛以来、三好氏征伐にあった。 阿波三好家も基本的にを支援する側で、この文脈からを支援し、篠原長房らをに派遣していた。 これは信長とが決別しても、阿波三好家が義昭方に組み込まれることで継続した。 信長は阿波三好家を討つべく、細川信良に命じての香川氏を調略もしていたが、 最も大きな施策はのの支援であった。 長宗我部氏への取次となったのは 惟任光秀で、これは光秀がや氏を通じて、長宗我部氏と縁戚にあるからだった。 信長は元親の子に「信親」の名乗りを与えるなど、長宗我部氏を厚遇したのである。 はの後援の下、三好氏討伐という名分を獲得して、阿波へ侵入していくことになった。 元親が提携相手として選んだのは 三好式部少輔である。 勝瑞城を本拠にする三好越後守らは堺から 三好存保()を招聘して「阿波三好家」を再興した。 細川真之や一宮成助らは長宗我部氏や「阿波三好家」と組んだり離れたりして第三勢力としての位置を保った。 戦国時代でも、三好氏によって穏便に統治されてきた阿波は真の意味で戦国時代に突入した。 はもちろん長宗我部氏を支援する姿勢を崩さない、と思いきやこの頃から織田・長宗我部間外交は徐々に隙間風を生じ始める。 かつて「阿波三好家」のであった三好康長が故郷・阿波の内紛に当初から主体的に関与したかは定かではないものの、8年(1580)に伴い阿波にやって来て勝瑞城を奪った・の牢人衆がの「」を標榜していたことと康長が近く讃岐に派遣されるという噂は元親を刺激している。 前者は牢人衆が勝手に自称しただけという可能性もあるが、康長は9年(1581)2月に讃岐経由で阿波に入国し、長宗我部氏に通じていた三好式部少輔を調略しての味方に付けている。 これを受け、と長宗我部氏の利益調停を図るためか、信長と康長は式部少輔と長宗我部氏の融和を図った。 信長朱印状には以下のような康長の副状が付けられた(宛名である「香曽我部安芸守」は元親の弟である香宗我部親泰のこと)。 爾来不申承候、仍就阿州表之儀、従 信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申旨候、随而 同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就忩劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎、於我等可為珍重候、恐々謹言、 六月十四日 康慶 香曽我部安芸守殿 御宿所 この頃は 「上様」と尊称されるのが定着していたを 「信長」と呼び捨てに出来る康長の地位が偲ばれる(一応この頃でも家臣による「信長」呼び捨ては例がないわけではない)。 内容としては丁重に同族・式部少輔の地位確保を頼むもので、康長が長宗我部氏を敵視するようなニュアンスはない。 ただし、長宗我部氏が勢力伸長する中でも三好一族の権利維持を訴えたものと見る事もできよう。 この頃信長周辺に長宗我部氏のことを讒言する者がいたらしく、讒言者が康長である可能性もあるが、確証はない。 そして、三好康長が織田政権の讃岐・阿波担当者であることがより明確化されていく。 9年(1582)11月の松井友閑書状では 「就其阿・讃之儀、三好山城守弥被仰付候」という表現が出ている。 阿波・讃岐両国は康長が統括するという方針が示されたのである。 しかし、この方針は同時に、ここまで自力で阿波に勢力を拡大してきた長宗我部氏を認めない意志をちらつかせるものでもあった。 10年(1582)1月は征伐に出陣するが、同時に康長に四国渡海を命じた。 征伐が終わると信長は三男・信孝に次のような朱印状を与えた。 就今度至四国差下条々、 一、之儀、一円其方可申付事、 一、之儀、一円三好山城守可申付事、 (略) 万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、 十年五月七日 三七郎殿 長宗我部氏が進出していたは「一円」三好康長に与えられることになり、信長の眼中にもはや長宗我部氏はなかった。 さらに自身の子である信孝に対し 「康長を親とも主君とも思え」と訓戒している。 実際信孝はこの後康長の養子になったようだ(全然関係ないが、信孝の仮名「三七郎」は見事に信長の「三郎」と康長の「孫七郎」の合体名になっている)。 信長は将来的な信孝の継承ありきではあるが、「阿波三好家」再興に大きく方針を転換させたのである。 康長は2月以降すでに阿波に渡り、織田の大軍来襲を宣伝しつつ、勝瑞城に入っていた。 「阿波三好家」の看板を持っていた三好存保とも結んだ康長には雪崩を打つように阿波三好家の残党が加わり、一宮城や夷山城を攻略するなど織田軍渡海への準備を進めている。 もこの勢いの前に、5月21日付けで海部城と大西城を残して阿波から撤退するという譲歩を示す書状を認めた。 神戸改め三好信孝を主将、惟住長秀を副将とする大軍が四国渡海を前に堺に続々集結し、織田政権による「阿波三好家」再興の時は目前に迫っていたのである。 ところが、6月2日京都に滞在していた・信忠父子を惟任光秀が襲撃し、両者を討ち取った()。 この事件が伝わった堺ではパニックで軍勢が離散してしまい、康長も信長という後ろ盾を失ったとあっては阿波に留まり得ず、に逃亡した。 こうして、 信長のとしての康長のキャリアは、主君の死によって突然終わった(もちろんそれで臣ではなくなったわけではなく、康長はとの提携に活路を見出していくことになる)。 以上、としての三好康長を概観した。 の人材登用と言うと 信賞必罰というイメージのある方もいるだろう。 しかし、康長は何か取り立てて役立ったと言えるのだろうか。 もちろん積極的な活動が見られない5年(1577)~8年(1580)も史料が残っていないだけで精力的に活動していた可能性はある。 しかし、の戦いでの康長の行動は明らかに失態であり、責任を負わなかったのは奇妙にも映る。 康長の上司とも言い得る原田直政の塙一族やが粛清された時も康長には全く累が及ばなかった。 また、8年(1580)まで康長は目立った活動がないが、以降の信長は長宗我部氏に冷淡になり、康長を通じて阿波三好家再興にのめり込んでいく。 そして康長は讃岐・阿波の統括者になり、信長の子・信孝をして親や主君に比される存在となる。 このような存在としては譜代や叩き上げである河尻秀隆やがいるが、康長が長らく信長の敵であった新参であることを思えば、この待遇は 破格と言えるだろう。 しかし、重ねて言うが康長の何の行動が、彼の織田政権でのかくも高位を与えているのだろうか? 何を訝しがっているのかわからない人もいるだろう。 要するに順序が違うのではないかということである。 しかもその過程で、、惟任光秀は織田政権で約束されかけていた地位を失っている。 換言すれば、は三好康長に 「や従来の外交を排除してまでも将来的にものすごく役に立つ」何かを見出していたということになるだろう。 3 征伐に見るの軍事観 ところで唐突であるが、の軍事とはどういうものであったか、簡単に見てみたい。 素材にするのは10年(1582)をあっという間に滅ぼした、いわゆる 「征伐」である。 と武田氏は本来同盟者であったが、元亀3年(1572)にが信長を裏切ったことで以降敵対していた。 は長年よく・徳川氏と戦い、領国維持に努めてきたが、9年(1581)3月を救援し得ず、の武田軍が全滅したことで 「天下の面目」を失った。 に従っていては、もしもの時に助けてもらえないという感情が勝頼旗下の国人たちに喚起されたのだ。 この効果はすぐに現れ、10年(1582)1月西衆・は勝頼から離反し、織田方に鞍替えした。 そこで信長はいよいよ勝頼を叩くべく、東国への出陣を決めた。 しかし、ここで見たいのはいかに織田軍がを滅ぼすかという道程 ではない。 に侵入した織田軍の主将は信長の嫡男・ であり、信長より一足先に出陣していた。 もちろん信忠の単独行ではなく、 河尻秀隆・といった老臣が信忠の補佐役として信長から付けられていた。 ただ、信忠軍は信長出陣を待つことなく、武田領国に先行していったのである。 信望を失った旗下からは多くの部将が離反し、信忠軍はどんどん深入りし、3月11日には勝頼を討ち取った。 あっという間に武田領国は崩壊し、織田軍の占領するところとなった。 結果だけ見れば、の大戦果であった。 しかし、 は先行し続ける信忠軍の動きを常に危惧していた。 信長は自身が出陣するまで、信忠軍がそれ以上の深入りをしないことを、・河尻秀隆・といった幹部に数日置きに厳命している。 しかし、 なぜはここまで信忠軍の突出を戒めているのであろうか?が急に逆襲してくる危険に怯えていたのだろうか。 あるいは、武田滅亡の戦功を信忠に独占されるのが気に食わなかったのだろうか。 もちろんそうではない。 織田軍が前進し続けること自体に問題があったと見るべきである。 その問題の端緒は、実は出陣の条々にすでに記載があった。 …在陣中 兵粮つゝき候様にあてかい簡要候… が常に危惧していたのは、信忠軍が先行し続けることで 補給が追い付かなくなることであった。 この信長の危惧は杞憂ではない。 事実、織田軍は3月中旬に兵糧の欠乏に陥り、脱走兵が出始めた。 信長は接収した武田軍の兵糧を分配し、また・から兵糧の支給を受けることでこの危機を乗り切ったが、もしも勝頼がもう少し粘れていたなら、織田軍は兵糧問題から快進撃を続け得なかったと考えられる。 そうなれば、あるいは取り残された織田軍は犠牲になり、信長にとっての「高天神」になることもあり得た。 信長が 「信忠が下手な動きをしたら、生きて帰ってきても二度と会わないからな」とまで言った背景とはこのようなことであった。 への意識から前線の際限ない拡大を危ぶむ信長の軍事センスは、80年ほど前のどこかの島国の首脳にも聞かせたいところだが、それはともかくとして。 は常にへの意識が高く、同時にそれを実現できる軍事システムは完成していなかったことが理解できる。 4 四国への直接介入の方法とは? ここで再び目を四国に転じよう。 さて、から四国へ行くにはどうすればいいのだろうか?戦国時代にはももない。 裸一貫大阪湾を泳げばいいのだろうか?いやそれにしても武具は携行できるのか?なんてアホな話をするのではない。 普通は船を使うものである。 謎のボケをてしまったが、から四国に行くにはどうやっても船を使うしかない。 船と言っても、大船団を形成するには、大量の木材と職人が要る。 通常のであれば、乗員は100人単位だし、武具や兵糧の支給も考えれば、万の軍勢を送るには3ケタを超えるレベルの船舶数が必要なのである。 さらに船があればそれで終わりではなく、航路の把握や安全の確保、船で行く先の最低限の治安維持も含めるとクリアすべき条件は多い。 要するに四国・間を大軍が移動するハードルは高い。 への意識が高いであればこそ、妥協は出来ない。 例えば、軍勢を四国へ送り込むとしても、途中で海賊に襲撃されるかもしれない。 上陸を果たしても補給が追い付かなくては、軍勢は四国で飢えてしまう。 もしも三好氏の軍と交戦し敗北を喫したら、帰りの船はないかもしれない。 そのためにも両岸に有力与党勢力がいなければならない。 せっかく派遣した軍勢が助けもなく全滅などという事態に至れば、は「天下の面目」を失うことになるだろう。 そういうわけで実際、は四国へ織田の軍勢を送ることはついぞなかった。 は上洛以降、幕府秩序の中で播磨や但馬に援軍を送り、何度も阿波三好氏討伐を訴えた。 しかし、 阿波三好氏討伐のために義昭幕府および信長がとった手段は常に調略だった。 軍事動員による「成敗」こそ効果的であろうに、信長は一度も四国に軍勢を派遣しなかった(出来なかった)。 別に信長を侮っているわけではなく、すらないのだから当然のことである。 ところで、ここからが本題である。 何と戦国時代には・四国間に自由に大軍を移動させることが出来た勢力がいた (前振りである)。 澄元系と三好氏である (ババーン!)。 彼らはで苦境に陥った際、常に四国勢を渡海させ、その合力でもって対抗勢力に勝利してきた。 その規模は記録類にもよるが、5000~2万くらいで、だいたい1万人ほどが来ていたと考えて良い。 四国勢の有無で戦局が左右されるのだから、小勢なはずがあるまい。 四国勢は・三好氏の要請があると、基本的にそれを拒否することはなく、大軍を送り込めた。 関係史料が少なく滅多な事は言えないが、その動員はシステム化されていたと見られる。 では、三好氏(と)はどうやってこの動員を可能にしていたのか。 要因としては以下のものが挙げられよう。 大阪湾に面した摂津・和泉と対する讃岐・阿波という両岸に勢力を有していた• 淡路の水軍の棟梁・安宅氏に養子を入れ(安宅冬康)、淡路の水軍を傘下とした• 四国は木材の産地で船を作る資材に事欠かない(撫養には舟座があった)• 尼崎、兵庫、堺といったを掌握し、三好氏の政商を作って利害関係を一致させた 最近、権を 「環大阪湾政権」、織田政権を 「環伊勢湾政権」と規定して、両者の共通点と差異を語る説に出くわしたことがあるが、「環伊勢湾政権」と「環大阪湾政権」の違いとしては、後者はの大軍輸送を伴っていたことがあるだろう。 三好氏は人的ネットワークによって、大阪湾・東瀬戸内海のを握り、これがの大軍動員を可能にしていたのである。 そして三好氏が掌握し続けてきたこの優位性は、義昭幕府や織田政権が生まれてもすぐに失われたわけではない。 信長上洛の際、や篠原長房は阿波へ退避したが、は阿波から出撃する三人衆や康長を撃退することは出来ても、逆に阿波に攻め入ることは出来なかった。 三人衆や篠原長房は阿波に逃亡したり、阿波からに出撃したりしているが、の勢力は一度も四国とを往来できなかったのは真に対照的である。 信長は尼崎を放火したり、堺から矢銭を献上させて屈服させようとしたが、堺は実際には矢銭献上後も性を保ち、三好氏の要人が滞在するなど、織田方に完全に組み込まれたわけではなかった。 が信長に長年抵抗できたのも、が大阪湾を制し得なかったために、補給が自由に出来たという側面もあった。 三好氏が約50年かけて築いた大阪湾での地位は、新参のがすぐさま奪ってしまえるものではなかった。 さらに信長の「環伊勢湾政権」は大軍の輸送の経験が乏しいもので、で登用した家臣団もノウハウがあるわけではない。 織田人脈が大阪湾に食い込んでいくには、本来様々な試練を伴うものであった。 5 三好康長の役割 そろそろ結論が見えてきた人もいるのではないだろうか。 8年(1580)が屈服し、織田政権はようやく大阪湾の支配に乗り出す。 翌9年(1581)11月には・が淡路の反織田勢力を駆逐し、淡路をようやくの勢力圏に入れた。 もっとも淡路のは三好一族の安宅神五郎(実休の子で存保の弟にあたる)がリーダー格である体制が存続したようである。 こうしてようやく織田政権は四国へ派兵可能な条件を揃え、10年(1582)5月に準備された四国攻めに繋がって行く。 だが、9年(1581)も暮れになって織田政権が渡海派兵の準備をしたのを余所に、 臣としての三好康長はそれ以前からと四国を往来できていた(2次史料出典なので確証に欠けるが、一度ではなく複数回行ったり来たりしている)。 単に使者として一人で移動すればいいわけではなく、康長の渡海はが警戒したように、 数百レベルかもしれないが軍勢を伴っていたはずである。 すなわち、康長は織田政権が大阪湾に進出する前から、大阪湾を軍勢で往復していたということになるだろう。 一体どういうことなのか。 これこそが康長に期待された三好ブランドだろう。 茶人として名高い康長は堺の商人にも顔が利いたし、阿波にも基盤があった。 何より康長は永禄からまで信長の敵としてではあるが、何度も軍勢を伴って大阪湾を移動し、そのノウハウを熟知していたのである。 にとって、三好康長は四国に介入するための切符のようなものだった。 そして、この切符を持っているのは康長 だけだった。 原田直政やが持っていないのはもちろん、も持っていなかったし、長宗我部氏の取次であった惟任光秀にも大阪湾に大軍を動かす術はなかった。 信長は三好康長の経験と知識に頼らざるを得なかったのであり、その過程で四国政策に関係する可能性のあるは姿を消して行った。 彼らとて、じゃあ四国へ大軍を送ってくれと言われても困ったであろう。 これは長宗我部氏とて同じことであった。 元亀2年(1571)に土佐一条氏のが将軍に鷹を献上したことがあったが、そのルートに介在したのは阿波三好家の・篠原長房と三好義継だった。 土佐の勢力も基本的に阿波三好家の四国・間流通を用いてと連絡していたのである。 さらにの阿波進軍ルートも陸路によるもので、その四国統一に最後まで抵抗したのが阿波三好家旗下の経歴を持つ森水軍であったのが象徴的であるが、勢力拡大といっても阿波沿岸のを握れたわけではなかった。 つまり、 長宗我部氏がどれだけ阿波に侵入しても、その成果として織田の大軍を迎え入れることには繋がらなかった。 が軍事動員を以て四国介入を成すには、どれだけの戦争で役に立たなかろうが、三好康長(の持つ三好氏の伝統的な)を用いるしかなかった。 これが歪な人事になってまで、康長が優先された理由と考えたい。 信長が長宗我部氏に冷淡になって行くのも、本質的にはその勢力拡大が織田軍の四国直接介入に直結しないという事情が本質に近いのではないだろうか。 もちろん信長がただ康長に引っ張られたわけではなく、康長も織田政権の威光があってこそ、四国介入に内実が伴った(後、康長がとっととに引き揚げたのも信長の威光なくては四国にいるのが危険だったからである)。 こうして考えると、康長の最後の動向が豊臣政権によるいわゆるに見えるのは象徴的である(康長が降伏したを出迎えたという)。 以降、三好康長はいつ死んだのかもわからず、記録から消える。 権に代わる中央政権が、での大軍輸送と補給が可能となったその時を境にして、康長の存在意義は消えたのである(もちろん康長ら三好氏の家臣経歴を持つ者たちは少なくない数が豊臣大名の家臣に転じており、その流通・貿易に関する技能はその後も陰に陽に命脈を保った)。 (どうですか?ゲームとかでも康長ら三好氏人脈を雇わないと四国介入できないみたいな縛り作ってみない?(現実の康長贔屓がの一因になったみたいに、絶対どっかで既存の家臣に裏切られそう)) 参考文献 : 論者によっては秀吉と康長の関係を織田政権時代からとする人もいるが、私は秀吉と康長が関係を構築していくのは信長死去後であると考えている : ただ、の性向的にあまり相手のことを考えず、自分の利益のみの拡大を図ってしまうのはよくある : 式部少輔は康長の息子ともされるが、書状中では「同名」すなわち同族という言及しかないので実際息子なのかどうかは不明である : ちなみに『』は兵糧のk欠乏には一切触れず、信長が兵糧を分配したので皆喜んだという記述に終始している。 なぜ喜んだのか、背景がないとわからんとも思うが、は書きたくなかったらしい : の入国がこの時であるというのは後世の編纂記録のみでしか確認できない hitofutamushima.

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三好長慶

三好長治 麒麟

三好長慶の 下五郡であったの嫡男で、3年()にに属して阿波国より上洛したの曾孫。 、、、の兄。 正室はの娘、継室はの娘。 は孫次郎、は、、後に。 史料では「三筑(=三好筑前守)」の略称で彼の名が多く残っている。 現代の地元ファンからは、尊敬と親しみを込めての長慶を「ちょうけい」とで呼ばれることもある。 生涯 [ ] 出生・家督相続 [ ] 2年()2月13日、の重臣である三好元長の嫡男として現在ので生まれる。 三好氏歴代の居館地と伝わる阿波国三好郡芝生()では、生母が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある。 [ ] 父は細川晴元配下の重臣で、主君・晴元の敵であったを滅ぼした功労者であった。 本国阿波だけでなくにも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の・らの策謀で蜂起したによって、5年()6月に殺害された。 当時10歳の長慶は両親と共ににいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した。 若年期の活動 [ ] 細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなりとなる。 そのため天文2年()に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した。 「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」 『本福寺明宗跡書』 とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。 交渉自体は仙熊の名を借りて、叔父のなど代理の者がした可能性もある。 この直後に元服したとされる。 理由は長慶の嫡男・三好義興や13代・、晴元の子のなどが11歳でしているためである。 千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した。 ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである。 8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津を奪回した。 翌天文3年()になると本願寺に味方してに細川晴元軍と戦い、10月には潮江庄()で晴元方の三好政長と戦ったが、でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。 この後の、晴元の命令で長慶の家臣が京都平野神社の年貢等を横領しているのを止めて還付するようにされている。 その後は晴元の武将となり、天文5年()3月にや本願寺武断派のらが拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗北。 この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、徒立勢ばかりだった一揆軍をまでに全滅させた(『続応仁後記』)。 勢力拡大 [ ] 天文8年()、長慶は細川晴元の供をした時、のから前年に献上されていた鷹を与えられた。 10日後のに長慶は晴元を酒宴に招き、その席での料所である()の代官職を自らに与えるように迫ったが、晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた。 この料所の代官は元々は父が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである。 幕府のであるは長慶の要求を正当としたが、12代将軍・は近江のを通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる。 長慶は1月の上洛時に2,500の人数を率いていたため、この数と石山本願寺・の後ろ盾を得て入京し、細川晴元は閏に退京してに移り、やら一族を呼び集めた。 義晴はやなどの諸大名に出兵を命じる一方で六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、夫人のと嫡子の義輝を八瀬に避難させた。 この混乱で京都の治安が悪化したため、長慶は義晴から京都の治安維持を命じられている。 長慶に名指しされた三好政長は4月に丹波国に蟄居していたが、細川晴元の意を受けて京都へ進出。 には和談は不首尾に終わり長慶と政長は妙心寺付近で小規模の戦闘を起こしている。 、長慶は六角・武田などの諸大名を敵に回すことを恐れて和睦を承諾し、摂津と山城の国境のから撤退した。 結局十七箇所の代官職は与えられず、8月に摂津越水城に入城した。 これまで三好氏の当主はあくまでも阿波を本拠とし、畿内において政治的あるいは軍事的に苦境に立つと四国に退いて再起を期す事例があったが、長慶はこの入城以降は生涯阿波に帰国することなく、摂津を新たな本拠として位置づけることになる。 この後の長慶は摂津守護代となり幕府に出仕するようになるが、陪臣の身で将軍までも周章させて摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、主君の晴元に脅威を与えるほど長慶の実力は強大なものとなっていた。 天文9年()、の(秀忠)の娘を妻に迎えた。 ただしこれは『三好家譜』の記述であり同書は誤りが多いために必ずしも信頼できないが、によると嫡子の義興は天文11年()生まれであり、天文10年()に長慶が摂津(山下城)を攻めた際に波多野軍も共同しているため、長慶の結婚は天文9年(1540年)から天文10年(1541年)の間と推測されている。 天文10年(1541年)9月頃に名を利長から範長と改名、この年の6月に長慶は独自に都賀荘から徴収を行い、晴元から停止を命じられている。 晴元は自らの側近であるを段銭徴収の責任者としていたためである。 だが、長慶はこれを無視したために彼の影響下にあった摂津国下郡(・南部・・菟原郡・)では長慶と道祐から二重の段銭徴収を命じられる事態が相次ぎ、長慶は晴元との対立を深める要因となった。 だが、下郡の中心都市であった西宮を管轄下に置く越水城を支配する長慶の影響力は次第に下郡のや百姓に及びつつあった。 また、には三好政長と共同して摂津国人の上田某を攻めて自害させ城を奪った。 には細川晴元の命令で細川高国の妹を妻とする一庫城の(国満)を三好政長やらと共に攻めた。 しかし政年の縁戚である摂津国人・や、そして木沢長政らが反細川として後詰したため、長慶は背後に敵を受ける事となってに越水城に帰還した。 この時、伊丹軍が越水城に攻め寄せるが長慶は撃退し、その与党の城である(尼崎市)を逆に落とした。 細川晴元に反逆した木沢長政は上洛して将軍・義晴と晴元を追うなどしたため、河内守護代のは長政が擁立した河内守護のを追放してその兄であるを迎え、長慶に味方することを表明した。 このため翌天文11年(1542年)、長政は稙長のいる河内を攻撃しようとして太平寺で戦ったが、政長・長慶の援軍が加わった長教に敗れ討死した()。 太平寺の戦いから9ヵ月後の12月、細川高国のに当たるが畠山稙長の支援で高国の旧臣を集めて蜂起、翌天文12年()に堺を攻撃したが、細川元常の家臣・松浦肥前守、らに敗れてに逃れた。 長慶はに細川晴元の命令で堺に出陣、氏綱と戦っている。 この頃になると長慶の実力は石山本願寺にも一目置かれており、天文13年()に父の13回忌法要の費用が証如から長慶に送られている。 天文14年()4月、細川高国派のらが氏綱に呼応、丹波から進軍して山城井手城を落とし、元全の父・も槇島まで進出したため、細川晴元は大軍を率いて出兵し、長慶も従軍して山城で戦った。 その直後、岳父の波多野稙通の支援要請に応じて丹波に出兵し、氏綱派のが籠もる丹波をに包囲してに落とした。 氏綱の後援者だった畠山稙長も死去したため当面政権は安泰となった。 しかし翌天文15年()8月、稙長の後を継いだ畠山政国と遊佐長教が細川氏綱を援助し、氏綱と政国、そして足利義晴らが連携して細川晴元排除の動きを見せると、長慶はに晴元の命令を受けて越水城から堺に入った。 しかし堺はに河内高屋城から出撃した細川氏綱・遊佐長教・などの軍に包囲され、準備不足であり戦況不利を悟った長慶はに依頼して軍を解体し、氏綱らも包囲を解いて撤兵した。 この後も氏綱らの攻勢が続いて晴元・長慶は敗北を重ねたが、長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)、十河一存ら四国の軍勢が到着すると一気に逆転し、義晴は12月に近江に逃れて嫡子の義輝に将軍職を譲り、長慶は実休や阿波守護のらと共に摂津やの三宅国村などの将軍方の城を落とし、摂津を奪い返した。 そして天文16年()ので細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、敗報を聞いた足利義晴が閏に帰京して細川晴元・六角定頼と和睦、長慶・実休は8月に河内で氏綱・長教軍と対陣したが、義晴が離脱していたため氏綱らは戦意を喪失、長滞陣の末に翌天文17年()4月に両者は定頼の斡旋で和睦、長慶は5月に越水城へ帰城した。 なお、将軍家が近江に逃れたことで幕府の執事であるは天文16年(1547年)3月に幕臣の所領保護を求めている。 この事から陪臣ながら、さらには将軍と戦おうとしている家の家臣である長慶の実力が認められていたことがわかる。 また、長慶は4月に足利義晴を援助していた六角定頼を味方につけたため、義晴の敗北及び細川晴元の和睦・帰京に繋がり、長慶も定頼の斡旋を受けて遊佐長教らと和睦している。 この直後、長慶は長教の娘を継室に迎えた。 先の和談における政略結婚であったという。 晴元・政長との対立 [ ] 天文17年()以前、あるいは12月以前に孫次郎範長から筑前守長慶と改名、同年7月に三好政長を討とうとした。 理由は「宗三父子の曲事」、つまり政長と息子・の不祥事であるとする説と 、父の殺害の裏で暗躍した政長の存在を遊佐長教から聞いたためとも、政長の婿である摂津国人・池田信正がに晴元に切腹させられ、遺児で政長のに当たるが後継に置かれたことが他の摂津国人達の反感を買い、長慶が反政長派に推されたことも一因とされている。 政長は晴元からの信任が厚く、越水城で長慶が開いた軍議では晴元が政長を庇うのであれば、晴元も敵とする事を決議したという(『細川両家記』)。 8月12日、長慶は細川晴元に三好政長父子の追討を願い出たが、訴えは受け入れられなかったため、にかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び晴元に反旗を翻し、因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け三好政勝が籠城するを包囲した。 長慶の行為は晴元方の六角定頼から「三好筑前守(長慶)謀反」とされ(『足利季世記』)、『長享年後畿内兵乱記』でも「三好長慶謀反」と記されている。 翌天文18年()2月に長慶の本隊が出陣、4月から晴元・政長が政勝救援のため摂津に向かい、長慶軍と政長軍が摂津で対陣すると、晴元は三宅城へ、政長はに布陣して近江の六角軍の到着を待とうとしたが、長慶は江口城の糧道を絶ち、弟の安宅冬康・十河一存らにに布陣させた。 六角軍は6月24日に山城の山崎に到着したが、その当日に江口城で戦いがあり長慶は政長ら主だった者を800名も討ち取った()。 戦後、細川晴元と三好政勝らは摂津から逃亡し六角軍も撤退、晴元は足利義晴・義輝父子らを連れて近江国に逃れた。 長慶は晴元に代わる主君として細川氏綱を擁立し、に入京。 6日後のに氏綱を残して摂津へ戻り、晴元派の伊丹親興が籠城するを包囲。 天文19年()3月に遊佐長教の仲介で開城させ摂津国を平定した。 これによりは事実上崩壊し、が誕生することになった。 主君さらに将軍との対立 [ ] 芥川山城の石碑 近江国に亡命していた足利義晴は京都奪回を図り、天文19年()2月に京都東側のの裏山にを築いたが、5月に義晴が亡くなった後は6月に足利義輝が細川晴元と共に中尾城へ入り、徹底抗戦の構えを見せた。 両軍は小規模な戦闘に終始したが、長慶は近江にも遠征軍を派遣して義輝らを揺さぶり、退路を絶たれることを恐れた義輝は11月に中尾城を自ら放火して、坂本から北のへ逃亡した()。 この間の10月に長慶は義輝に和談を申し込んだが、晴元・義輝らの面目からかこの時は不首尾に終わる。 将軍も管領も不在になった京都では長慶が治安を維持し、公家の所領やを保護しながら義輝・晴元らと戦った。 天文20年()、の2回にわたって長慶は暗殺未遂事件に遭遇している。 1回目の犯人は挙動不審な態度からすぐに逮捕・処刑され、2回目の犯人は将軍近臣ので、『』では賢光の遺恨で長慶を襲撃し手傷を負わせたが、失敗して即座に自害したという。 この混乱に乗じて将軍方の三好政勝とが事件翌日のに丹波宇津に侵入している。 また5月5日には長慶の岳父であるも自らが帰依していた僧侶の珠阿弥にされてしまった。 このような事態を見てか、7月には三好政勝・香西元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも、長慶はとその弟の(内藤宗勝、丹波守護代)に命じてこれを破った()。 このため六角定頼が和議を斡旋するが翌天文21年()に死去したため、後継者のが引き継いで交渉を進めた。 そして、細川晴元は細川氏綱に家督を譲って出家する代わりに長慶は晴元の幼児である聡明丸(後の昭元)を取り立てること、足利義輝の上洛を条件にして和議が成立した。 義輝はに上洛し、長慶はに上洛しての格式を与えられ、細川家々臣から将軍家直臣になった。 そして幕府は将軍の義輝、管領は細川家当主の氏綱に、実権を握る実力者である長慶という構図になった。 ところが細川晴元が京都奪回のために軍を興し、これにが加担したため、長慶はに丹波を包囲した所、従軍していたなどが波多野に味方したため、に包囲を解いて越水城に撤退する。 またこれで聡明丸を京都に置いておく事に不安を感じ、に越水城へ移している。 10月に長慶は再度丹波を攻め、晴元に味方する諸将と戦った。 11月にも晴元党の動きはあったが、小規模な戦闘か放火程度で終わっている。 天文22年()閏1月、義輝のらは長慶排除のために細川晴元と通じ、しばらくして長慶は和議を結ぶが、その際に奉公衆から人質をとった。 に長慶は晴元と戦うために丹波へ出陣したが、3月には義輝自身が長慶との和約を破棄して東山の麓に築いたに入城した。 合わせて帰参していた芥川孫十郎が再度反乱を起こして摂津へ籠城、丹波・摂津・山城から三方向に脅威を抱えた長慶は松永久秀に命じて晴元方の軍を破った。 7月に長慶が芥川山城を包囲している最中に義輝が晴元と連合して入京を計画するが、長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると晴元軍は一戦もすること無く敗走、義輝は近江朽木に逃走した。 長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したという。 以後5年にわたって義輝は朽木で滞在をすることになり、京都は事実上長慶の支配下に入った。 長慶は芥川山城を兵糧攻めにして落とし包囲網を破ると、芥川孫十郎が没落した後の芥川山城へ入り居城とした。 越水城が摂津下郡の政治的拠点であったのに対して、芥川山城は高国・晴元の時代を通じて摂津上郡の政治的拠点からの畿内支配の拠点に上昇しつつあり、長慶もその拠点を引き継いだのである。 また、禁裏と交渉を行ない、土塀の修理なども行なっている。 以後、三好軍は天文22年(1553年)に松永兄弟が丹波に、天文23年()にが播磨に出兵するなど軍事活動も積極的だった。 元年()6月、義輝は細川晴元や三好政勝・香西元成らを従えて京都奪還に動き、で三好軍と交戦した()。 しかし戦況は叔父のを始め三好実休、安宅冬康、十河一存ら3人の弟が率いる四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで三好方の優位となったため、六角義賢は義輝を援助しきれないと見て和睦を図った。 この時の和談はに成立し、義輝は5年ぶりに帰京した。 この時長慶は細川氏綱・伊勢貞孝と共に義輝を出迎えている。 以後の長慶は幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。 全盛期 [ ] 永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた(他に近江・伊賀・河内・などにも影響力を持っていた)。 当時、長慶の勢力に匹敵する大名はのくらいだったといわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。 この全盛期の永禄2年()2月にがわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した。 4月には(当時は長尾景虎)が上洛しているが、長慶は謙信と面識があり、6年前の上洛では石山本願寺に物品を贈りあったりしたというが、この時の上洛では面会は無かったようである。 この頃、河内国では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された(直政)が永禄元年()にをに追放するという事件があった。 これを見て長慶は松永久秀を永禄2年()に和泉国に出兵させたが安見方のに敗北、久秀は摂津国に撤退し、長慶も久秀と合流してに2万の大軍で河内に進出した。 そしてに高屋城、になどを落とし、高政を河内守護として復帰させ、宗房を大和国に追放して自らと通じたを守護代とした。 また、宗房追討を口実に久秀は大和へ進軍、河内と大和の国境付近にそびえるを拠点として大和の制圧を開始した。 細川家家中においても三好氏の権力は頂点を極めた。 この永禄2年(1559年)は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた(後に義興と改名)。 この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈し、永禄3年()1月にはに任命され、に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した。 にはの即位式の警護を勤め、財政難の朝廷に対して献金も行なっている。 このためもあってか、に義興が御供衆に任命されている。 永禄3年(1560年)、長慶は居城を芥川山城から飯盛山城へ移した。 芥川山城は息子の義長(義興)に譲渡した。 居城を飯盛山城へ移した理由については、「京都に近く、大坂平野を抑えることが出来る、加えて、への進軍も円滑に行える」という根拠が指摘されている。 また、三好氏の本領はだが、飯盛山であれば堺を経由して本領阿波への帰還もより迅速に、楽に出来るという理由もあった。 ただし、芥川山城よりも、京都との距離は離れていたとするの指摘もある。 永原は京都との距離こそ離れるようになったが、大和・和泉・河内方面への強い進撃・進出の意欲を見せた拠点変更であり、そこには長慶の自信が満ち溢れていたとも指摘している。 この他によれば、拠点候補としてと飯盛山の二つがあったが、高屋城は河内国一国の政治的拠点であるのに対し、飯盛山城は河内のみならず、大和と山城を視野に据えて合計三ヶ国に政治的影響を及ぼすことが出来る政治的拠点であり、ゆえにこちらを拠点に選択したと指摘される (ただし、後述のように天野は別の論文で、三好氏の家督と芥川山城についての見解を切り離して表明している)。 一方で飯盛山への拠点移行について、こうした政治的観点とは別に長慶の精神的な観点からの研究もある。 は「長慶の心はこの頃吟風弄月の文の世界へ向けられていた」と指摘 、、は、「長慶の精神には隠者的な傾向が見られる」とも指摘している。 また、天野忠幸は長慶の嫡男である義興が将軍から一字を与えられ、三好氏歴代の官途である筑前守に任ぜられたことを重視して、長慶の拠点移行と三好氏の本拠地の問題は別の問題として捉え、飯盛山への移転によって三好氏の家督は事実上長慶から義興へと譲られ、同時に三好氏の本拠であった芥川山城も新しい当主である義興に継承されたと説いている。 なお、天野はこの時期に家督継承が行われた背景として、将軍義輝と三好氏の長年の対立を収拾させるために新当主・義興が義輝との新たな関係を作るのが構築させ、自分は将軍権威と一定の距離を保つのが望ましいと判断したと推測している。 ところが、この永禄3年(1560年)に河内国の情勢が激変した。 長慶の支援で守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して再び安見宗房を復帰させたためであり、長慶は高政の背信に激怒し高政と義絶、7月に一帯で畠山軍と戦って勝利した。 には一帯で安見軍を破り、高屋城を後詰しようとした香西・波多野軍、根来衆なども丹波から来援した松永長頼が破った。 このために飯盛山城の宗房が、に高屋城の高政が降伏開城して長慶は河内を完全に平定し、高屋城は河内平定の功労者であった弟の実休に与え、自らは飯盛山城を居城にした。 また畠山家の影響力が強かった大和に対しても松永久秀に命じてこの年に侵略させ、11月までに大和北部を制圧して久秀に統治を任せた。 永禄4年()には義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎え、に義輝の勧告で細川晴元とも和睦、摂津へ迎え入れた。 また嫡子の義興はこの年に従四位下・御相判衆に昇任するなど、三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続いた。 この年までに長慶の勢力圏は先に挙げた8カ国の他、河内と大和も領国化して10カ国に増大し、東部2郡の支配、山城南部の支配なども強化している。 この長慶の強大な勢力の前に伊予のなど多くの諸大名が長慶に誼を通じていた。 晩年 [ ] 長慶の衰退は永禄4年(1561年)4月から始まった。 弟の十河一存が急死したのである。 このため和泉支配が脆弱となり(和泉岸和田城は一存の持城である)、その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて、細川晴元の次男・を盟主にすえ7月に挙兵し、南北から三好家に攻撃をしかけた。 この戦いは永禄5年()まで続き、に三好実休が高政に敗れて戦死した()。 しかし京都では義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも、義興・久秀らは安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、ので畠山軍に大勝して畠山高政を再度追放、河内を再平定し、六角軍は6月に三好家と和睦して退京した。 なお、この一連の戦いで長慶は出陣した形跡が無く、三好軍の指揮は義興・久秀と冬康らが担当している事からこの頃の長慶は病にかかっていた(病にかかったのは永禄4年(1561年)頃とも)のではないかといわれている。 以後、和泉は十河一存に代わって安宅冬康が、河内高屋城主には三好康長が任命されて支配圏の再構築が行なわれた。 永禄5年(1562年)8月には幕府の政所執事である伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、9月に松永久秀・三好義興の率いる三好軍によって貞孝は討たれた。 永禄6年()1月には和泉で根来衆と三好軍が激突し、最終的には10月に三好康長との間で和談が成立。 大和でも久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突があり、また細川晴元の残党による反乱が2月からかけて起こるなど、反三好の動きが顕著になってきた。 さらに永禄6年(1563年)8月には義興が22歳で早世、唯一の嗣子を失った長慶は十河一存の息子である重存(義継)を養子に迎えた。 本来であれば一存の死後に十河氏を継ぐべき重存が後継者に選ばれたのは、彼の生母が関白を務めたの娘でありその血筋の良さが決め手であったとみられる。 12月には名目上の主君であった細川氏綱も病死、この少し前には細川晴元も病死しており、三好政権は政権維持の上で形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になった。 ただし、氏綱については、有力な支持者であった内藤国貞が健在であった天文22年(1553年)までは長慶よりも上位にあり、その後も義輝・晴元に対抗するために長慶に政治的権力を譲る代わりに摂津の守護としての立場を保持したもので、傀儡ではなくむしろ積極的な協力者であったとする見解も出されている。 最期 [ ] 飯盛山城の模型 永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した。 松永久秀の讒言を信じての行為であったとされているが、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、思慮を失っていた。 冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(『足利季世記』)。 このためには嗣子となった義継が家督相続のために上洛しているが、に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている事から、長慶の病はこの頃には既に末期的だったようである。 そして11日後の7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。 義継が若年のため松永久秀と(・・)が後見役として三好氏を支えたが、やがて久秀は独自の動きを見せはじめ、永禄8年()から永禄11年()までの3年間内紛状態に陥った。 その後、久秀の側に鞍替えした義継と久秀は、新たに台頭した織田信長と彼が推戴するに協力、三好三人衆は信長に敗れ、三好政権は崩壊した。 その後、義継と久秀も信長と対立し、滅ぼされた。 年月日不詳 - に任官。 年月日不詳 - に叙す。 天文22年()2月28日 - に昇叙。 筑前守如元。 永禄3年()1月20日 - に転任。 将軍家の相伴衆に列座。 永禄4年()2月3日- 将軍より御紋の下賜がなされる。 長慶は織田信長と同じく堺の経済力に目をつけており、そこでの貿易による富裕な富で莫大な軍費・軍需品を容易に入手した。 また曽祖父の三好之長や父の元長ら以来による細川領国圏での国侍との関係、有能な実弟らの統治する四国の軍事力、特に強力な水軍を擁しており、さらに優秀な長慶の個人的才能が加わって全盛期における三好軍の軍事力は大変強大であった。 また阿波は小笠原を称していた頃から三好家の血族意識が強固であり、そのため長慶時代には弟の実休がしっかり阿波を守ることで他国進出を可能にした。 性格 [ ] 巧みな政治・軍略を展開しながらも下克上の雄ではなく旧来の人物であった と言われる。 保守的・優柔不断と言った評価も多い が、こうした長慶の人物像への評価に対して、「戦国時代の常識への無理解に基づく全く妥当ではない評価だ」という反論もある。 長慶は将軍・足利義輝と長年争ったが、長慶の義輝に対する対応は寛容・微温的であったとされる。 義輝と細川晴元を合戦で破り近江国朽木へ放逐した折、追撃が困難ではなかったにもかかわらず、長慶は義輝へ執拗な追撃をしようとしなかった。 さらにその後5年間、朽木を攻撃した形跡も見られない。 義輝が避難した場所は細川晴元の義兄のの勢力圏内であり、さらに義輝の妹婿であるのの勢力圏からも近かったことも影響していると考えられる が、『続応仁後記』は、敵を執拗に追い詰めない長慶の方針ゆえだと記述しており、長江正一も、敵を徹底的に追い詰めない長慶の性格が反映された措置と推定している。 また長江は長慶の性格について、「下剋上の標本のように言われるが、自己の権益を主張する以外は、古い伝統、秩序を尊重する律義者である」と評している。 はこの長江の寸評を引用し、自らも、長慶が義輝を追及、追撃しなかった理由として、「先祖が戦に起因して斬首や自害で世を去った悲しみを知る彼の性格」の結果として、朽木に追いやられた将軍を過剰に追撃しないという結果を出した、という論拠を提示している。 今谷明はこうした長慶の義輝とのやり取りを「柔弱・果断に欠ける」と評しており 、また後年の織田信長の足利義昭に対する「果断」と比較すれば、柔弱の誹りを受けるのも「さもありなん」と述べている。 一方、天野忠幸は、その信長も、義昭に対しては最終的に追放こそしたが、和睦を提案したり極力寛容であったこと、が追放した旧主・を一時家臣として迎え入れていたこと、が敵対した旧主・を軟禁するにとどめたことなどを根拠として提示し、「敵対したかつての主君を殺さない、執拗に追い詰めないことは、柔弱でも保守的でもない、戦国時代の常識である」と述べ、長慶が義輝に寛容な態度を取ったからと言って、それを根拠に長慶を柔弱・保守的な人物と評価するのは妥当ではないと指摘している。 長慶は大変寛大とされているが 、一方で決断力あるいは非情さに欠けてむしろ甘いとさえ思えるほどであった。 三好政長を討つ際、主君の細川晴元は政長を支持して長慶は謀反人とみなされた。 江口の戦いの際、弟の十河一存は晴元が三宅城にいる事を知り城を落とそうと提言したが長慶は受け入れなかった。 しかも戦後、晴元が帰京する際は弟の安宅冬康配下の淡路軍に警護させている上、その後に晴元と義輝が近江に逃れると圧倒的に優位でありながら和睦を懇望している。 細川晴元一党はたびたび長慶に反乱を起こしたが、長慶は人質である晴元の長男の昭元を決して殺さずに弘治4年()2月に自ら加冠役として元服させており 、永禄4年(1561年)5月に晴元が義輝の仲介で摂津に戻ってきた時には次男の晴之を六角氏に預けながら(この晴之が六角に擁立されて反三好の兵を挙げることになる)、昭元と再会させ隠居料も支払い庇護するという厚遇をした上に長慶が旧主と和睦できて涙を流したとしている(『足利季世記』)。 宗教 [ ]• 長慶は父の菩提を弔うため、3年()、大徳寺派の寺院、龍興山を長慶の尊敬する90世を開山として創建した。 茶人の、が修行し、が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。 長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。 長慶は父の菩提を弔うため、父が最期を迎えたの寺院、を庇護した。 また、長慶の旧主であった細川晴元は法華一揆を鎮圧して法華宗の寺院やその信徒である商人らを京都から追放したが、彼らは堺や尼崎・兵庫津など現在の大阪湾沿岸の諸都市に逃れた。 長慶は顕本寺や同地の商人との関係を重視してこれらの寺院や信徒を庇護したことで、都市に対する影響力を強めることになった。 長慶はキリスト教をよく理解し、畿内での布教活動などを許してキリシタンを庇護している。 このため家臣の(シメアン)など多くの者がキリシタンとなっているが、自らはキリシタンにはなっていない。 ただし長慶は旧体制の人物でありながら信長のように半面は新しさも持っていた。 教養 [ ]• 朝廷との関係を重んじてたびたび会を開くなど、豊かな文化人であった。 大林宗套は、長慶の三回忌に際し「心に万葉・古今をそらんじ、風月を吟弄すること三千」と讃えた。 長慶の正座は日常から正しく、連歌の行跡などは(幽斎)やも敬仰して模範にしたという。 晩年には前半生で成功した理由であった猛々しさを失っていたが、これは長慶が連歌に没頭したためともみなされている。 松永貞徳の随筆集『戴恩記』によれば、同時代にも長慶の教養人としての面を文弱としてあげつらう人もいたようであるが、長慶は「 歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」という和歌でそれに反論している。 長慶の連歌について、細川藤孝(幽斎)は「修理大夫(長慶)連歌はいかにも案じてしたる連歌なりしなり」との評価をに語っている。 長慶は久米田の戦いで弟の三好実休が戦死した時、連歌会を開いていたという。 そして実休の戦死報告が入ると一句を読んで周囲にいた面々をうならせたという。 ただし後代に書かれたものであり信憑性に疑問も持たれている。 には、嘗て長慶が所持したという茶碗、別名「三好粉引」が伝世している。 葬儀 [ ]• 長慶の死後、嗣子の義継が若年である事から松永久秀・・三好三人衆らは喪を秘して重病であるとし、2年後の永禄9年()6月24日に葬儀を営んだが、その際に参列の諸士が涙を流してその死を惜しんだという(『』)。 なお、その2年間で遺骸はかなり傷んでいた(『足利季世記』)。 その他 [ ] 『』によれば、17歳の時、「これより3年、夏の季節に100日間、虚空蔵求問持法の荒行を行い、それによって記憶力を鍛える」と宣言し、3年かけて実行した。 また、修行を達成した19歳の年に、四国を巡礼したという逸話を伝えている。 また同書によれば、息子を松永久秀に殺された、足利義輝の妹を妻に娶った、と記述している。 長慶と精神病 [ ] は『』の中で「老いて病み恍惚として人を知らず」と紹介している。 また今谷明は、の『』のモデルの一つが長慶だと言われていると伝聞の形で指摘している。 ただし、頼山陽の長慶評については、全く根拠がなく、その無根拠な評価を批判されている。 後世の評価及び三好政権の研究史 [ ] 武田・北条・毛利などと比べると、三好氏、及びその主君であった細川京兆家は史料に乏しく 、史料が豊富や分野・大名に研究は偏りがちであった。 また、など、長慶被官が発給した文書は京都の寺社を中心にそれなりに現存しているが 、その多くは活字に翻刻されておらず、文書の多くも京都市に偏っている。 発給文書でさえ全てが解明されていない為、三好政権の政策、長慶の思想などについては未だに不明な所が多い。 昭和43年(1968年)にはがより人物叢書『三好長慶』を刊行、これは先駆的な研究と評され 、も参考にしたという。 今谷は、 その当時 「長江氏のこの書籍以外、参考になるべき図書など殆どなかった」と語っている。 その後、今谷がいくつか三好政権並びにそれと深い関連を持つ室町幕府末期に関する著作を出すが、長らく、長慶、三好政権の研究は停滞していた。 しかし、平成12年(2000年)にが論文集『戦国期室町幕府と将軍』を出し、翌年からは今谷の室町幕府末期・並びに「」を研究した書籍が文庫として立て続けに再版される。 さらにこの頃から、の論文が公の場に発表されるようになり、三好氏の研究がにわかに活気づく。 平成16年(2004年)、「戦国期の政治体制と畿内社会」が日本史研究会のテーマとなり、天野忠幸の論文「三好氏の畿内支配とその構造」が発表される。 これによって、三好長慶、三好政権への学会の注目がより集まるようになっていった。 『』『』『』『』などの書物に三好長慶への言及がある。 これらの書物はいずれも江戸時代初期までに成立したものだが、いずれも長慶に対しては好意的に描いており、『北条五代記』は、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉と並び称している。 江戸時代初期までに成立した書物は、長慶を名将として礼賛しているものが決して少なくなかった。 しかし、江戸時代中期以降より、家臣の松永久秀と併せて、根拠の怪しい逸話などを交えて語られるようになった。 その代表が、『』における、「松永久秀の主殺し」を織田信長が紹介した、という逸話である。 そして、所謂「三英傑」と比較していつしか長慶の存在は顧みられることはなくなってゆき、の『足利時代史』『織田時代史』などでは言及すらされなくなった。 現在では、松永久秀の壟断、横暴を許し、下剋上されてしまった凡庸な君主としての評価が、「一般的な評価として」定着してしまっている。 そして、織田信長の「革新的」なイメージと比較され、旧主・保守的・文弱・柔弱というレッテルを張られてしまっている。 しかし、こうした通俗的な見解に対して、「織田信長の先駆者」 「信長に先行する斬新な政策を行った」 「長慶が果たせなかった『下剋上』を、信長が成就した」 という評価もある。 和歌 [ ]• 難波がた 入江にわたる 風冴えて 葦の枯葉の 音ぞ寒けき()• 生駒山 まぢかき春の 眺さへ かぐわふほどの 花ざかりかな()• 歌連歌 ぬるきものぞと 言うものの 梓弓矢も取りたるもなし 墓所・肖像 [ ] 墓所は八尾市の真観寺、の、の南宗寺など。 長慶の肖像は大徳寺のとに存在する。 聚光院のものは他の戦国武将のように不敵さ、鋭さ、泥臭さが欠けており、学問があり風流も解すといった教養人の印象が強い。 聚光院の肖像は昭和9年(1934年)1月30日にに指定されている。 聚光院、南宗寺の肖像は共にによる賛が付記されている。 家族 [ ] 母親の出自は不明だが、長慶が18歳の時に死去した。 法名は「明室保公大姉」。 妻は一人目がの娘、二人目がの娘である。 いずれも政略結婚と考えられ 、一人目の妻とは、長慶がと結託したことが契機で離縁された。 『続応仁後記』は、一人目の妻との離縁について、「不縁の子細有りて、妻女別離」と記述している。 二人目の妻についても、公家や寺社と長慶が交流する過程で交わされた書状に名前が見えず、早くに病没したか、遊佐長教が暗殺された後実家に帰ったのではないかと推定される。 長慶が側室を娶ったことは確認されていない。 子供は義興一人のみで、義興は最初の妻との間に生まれた子だと考えられる。 家臣 [ ]• 三好一族• 阿波からの譜代• 篠原氏(、、、、)• 市原氏• 加地氏(、その他数名)• 塩田氏(、)• 畿内で新たに登用した人物• 摂津国人• (野間康久、多羅尾綱知、池田教正)• 京都近郊の国人• 旧幕臣• その他• (嫡男義興近習)• 出自不明• 脚注 [ ] 注釈 [ ]• 絹本著色、賛、永禄9年()、蔵、。 大紋に描かれたは、永禄4年()にから許可されたもの。 明るい色彩や面貌の描写からの絵師の作と見られる。 なお、には本画像とほぼ同図様で、2年()7月4日に笑嶺宗訢が別の賛をした作品が伝わっている。 生母については姓名・出身は不明で聚光院に位牌が存在する• 合戦最中に政勝が戦場を放棄して放火したり、政長が長慶の事を細川晴元に讒言したといわれる(『細川両家記』)• 天野忠幸は『』でが述べた、「三好の人々には風流はあったが大志・野望がなかった」という寸評を引用し、こうした司馬の評価が、残念ながら世間一般の長慶や三好政権に対する評価だと述べている。 阿波以来の家臣は多くは阿波を支配した弟の実休に仕えたが、塩田氏の多くはそのまま長慶に随行して畿内で活動した。 ただし、松永久秀、岩成友通ら、畿内で新たに登用した家臣達が台頭して活躍し、その彼らは後塵を拝していたようである。 出典 [ ]• 『国宝 大徳寺聚光院の襖絵』展図録P90、、2003年• , p. , p. の呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。 , pp. 11-12. , pp. 1-2, 58-59、, p. 111、, p. , p. , pp. 66-69、, pp. 116-117、, pp. 88-89• , pp. 59-60• , pp. 72-75、, pp. 119-120、, pp. 96-97• , pp. 76-77、, p. 127• , pp. 60-61• , pp. 78-82、, pp. 121-126、, pp. 93-94• , pp. 82-95、, pp. 127-139、, pp. 97-102• , p. , pp. 96-107、, pp. 140-150、, pp. 102-105• , pp. 108-122、, pp. 151-172、, pp. 106-109• , pp. 39-41、62-63• , pp. 123-155、, pp. 172-189, 197-204、, pp. 109-115• , pp. 162-166、, pp. 213-217、, pp. 118-119• 118• 119• , pp. 62-63• , pp. 366、370• , pp. 166-178, 188-195、, pp. 217-226、, pp. 119-122• , pp. 210-213• , pp. 196-230、, pp. 235-242、, pp. 124-126• 馬部隆弘「内衆からみた細川氏綱と三好長慶の関係」『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、680-716頁。 , pp. 228, 254-255、, pp. 250-265、, pp. 132-142• , pp. 179-188. 275. 139• 135• , p. 136. , p. 100. , p. 194. , pp. 105-106, 113. , p. 151、, p. 275• , pp. 193-195. , p. 234. , pp. 248-266• , pp. 276 - 278. , pp. 248-250、, p. , p. 248. , pp. 248-249. , p. 256. , p. 275. , pp. 275-276. , p. 251. , pp. 14-15. , p. , pp. 序2-3. , pp. 序3-4. , p. , pp. 15-16、, p. , p. 301、による解説• , p. 106. 『戦国時代、村と町のかたち』、2004年、56頁。 『日本史のなかの戦国時代』山川出版社、2013年、34-35頁。 257• , p. 276. , pp. 257-258. 140• , pp. 94-95. , p. , pp. 140-141. , pp. 149-145 参考文献 [ ]• 『戦国三好党 三好長慶』〈38〉、1968年。 『三好長慶』〈〉、1968年。 『日本の歴史 11.戦国大名』〈中公バックス〉、1971年。 『戦国の群像』〈集英社版日本の歴史 10〉、1992年。 『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』〈MC新書〉、2007年。 『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。 『コレクション日本歌人選14 戦国武将の歌』、2011年。 今谷明、『三好長慶』、2013年。 天野忠幸『三好長慶』〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。 天野忠幸『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂、2015年。 『新約・』訳〈PHP新書〉、2008年。 関連作品 [ ] 小説• 徳永真一郎『三好長慶』(時代小説文庫、のち人物文庫、2010年5月。 ) テレビ番組• (、演:) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• Web版尼崎地域史事典『apedia』三好長慶• 有志による、三好長慶の再評価と顕彰を目的として設立・運営されている団体• 「公益財団法人関西・大阪21世紀協会」• 「徳島県観光情報サイト 阿波ナビ」• 「高槻市インターネット歴史館」.

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歴史秘話ヒストリア「戦国最強のナンバー2 天下を動かした男 松永久秀」の感想

三好長治 麒麟

三好康長は どちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。 なぜなら、康長はのとなっており、近年はの原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。 来年放映予定の 『』でも、主人公がであるからには、 康長も登場することは間違いなく、 ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。 …ってそういうことを言いたいのではないのだが。 しかし、三好康長はの家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に 信長の敵であった。 康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。 しかも臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、 信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。 これこそ四国説の鍵を握る事象であるが、これまたなぜそうしたのかという説明は聞かれない。 ここでいう説明はされているのではないか?という方もいるだろう。 例えば、長宗我部氏との取次であると康長と結んだの同士の対立であるとか、信長は長宗我部氏の勢力伸長を喜ばず、対抗馬の三好氏に肩入れするようになったとか。 しかし、こう言ったところで説明になっているだろうか?例えば、長宗我部氏は織田政権の四国攻めが迫る5月下旬段階でも、基本的には信長の意志に従う姿勢を見せている。 こと惟任光秀が信長の無二のであり、政権の中で重職を担ってきたのは今更言うまでもない。 対して阿波三好氏は、以降でも四国でも滅亡しかかっており、わざわざ肩入れする勢力としては心もとない限りである。 信長の「上意」に基本的に忠実で、後継者信親にを与えている長宗我部氏を穏当に政権内に取り組む手段などいくらでもあるのであり、四国政策から光秀を排除してまで三好氏と結ぶ理由は実は乏しいのではあるまいか。 秀吉と康長の関係を設定し、秀吉・光秀間の対立を見るにせよ、織田政権下での秀吉は四国政策に積極的関与はしておらず、そもそも秀吉と康長に関係があったとしてそのコネクションは何が狙いなのかなど、種々の新たな疑問が浮かぶ。 しかして、それは三好康長がどのような役割を担っていたのかで説明可能なのではあるまいか。 ちなみに三好康長は出家名の三好咲岩(笑岩)でも知られ、信長の家臣に転じた後は還俗して三好康慶を名乗るようになるが、 この記事中では三好康長で呼称を統一する。 1 三好康長がに従うまで 三好康長を紹介ついでに信長に従うまでをざっと追ってみよう。 三好康長は周知の通り三好一族で、仮名は 「孫七郎」、官途名は 「山城守」である。 康長は一般的にの叔父、で言うと長慶の父・の弟とされている。 しかし、の父・三好長秀は永正6年(1509)に亡くなっている。 つまり、康長が長秀の子(元長の弟)とするなら、永正6年(1509)以前の生まれということになるが…。 三好康長の文書上の初見は永禄2年(1559)で、この時すでにに列してはいたが、未だ「三好孫七郎」であった。 こうしたところを見るに康長はこの時せいぜい30歳前後と推測され、長秀の子というのは成り立ちにくく考えられる。 康長の官途名である「三好山城守」は、康長の活動初見に遡る30年ほど前、三好之長の弟・一秀が用いたものでもあり、康長は一秀の子孫ではないかとも考えられるが、確証はない。 さて、三好康長は 「阿波三好家」に属していた。 権と一口に言っても、内実はを支配する 「三好本宗家」と四国を支配する 「阿波三好家」の二元体制であったとは幸氏の研究成果である。 要するに康長の直接の主君はではなく、その弟の (一般には「」として知られる)であった。 「阿波三好家」の本来の任務は四国の支配にあったが、長慶は河内侵攻に四国勢を動員し、畠山氏の分国であった南部の支配を「阿波三好家」に任せた。 これは私の造語だが 「阿波三好家河内」が誕生したのである。 支配の拠点であったのは守護所である高屋城で当初は実休が高屋城主となっていた。 しかし、永禄5年(1562)河内奪還を目指す畠山氏との戦いの中、は戦死する(久米田の戦い)。 直後ので畠山氏を撃滅したため、「河内」は命脈を保ったがトップが消えてしまった。 こうした中永禄5年(1562)11月29日「河内」のたちは、「若子様」(実休の子・三好長治)への忠誠と協力して統治に当たることを誓った。 署名者は篠原長秀、加地盛時、三好康長、矢野虎村、吉成信長、三好盛政、三好盛長、市原長胤、伊沢長綱である。 彼らは原則として対等の立場であった一方、康長が財務を管轄するなど、康長が若干突出するものであった。 康長は実休生存時も単独で禁制を発給しており、当初より河内の中では 別格の存在でもあったのである(事実上、康長が高屋城主の地位を引き継ぐことになった)。 その後の永禄7年(1564)が亡くなり、永禄8年(1565)に長慶を継いだ三好義継やらが将軍を殺害する(永禄の変)。 康長ら「河内」は永禄の変に直接加担はしなかったようである。 しかし、この後とが対立すると、11月康長は長逸らとともに城を襲撃し、三好義継にの排除を脅迫した。 と康長の間には同盟が成立し、協力することになった。 ただ、康長の目的は「河内」の維持で、中央政治を担当する三人衆との役割分担は厳然としており、康長が三人衆より上位となることもなかった。 康長と三人衆はとその同盟勢力に対し戦いを優位に進めた。 だが、永禄11年(1568)が幕府再興を掲げ、とともに上洛してくると、三人衆は敗退して阿波に退去した。 康長も「河内」を放棄し、阿波に下ったと見られる。 「河内」の支配領域には畠山氏が復活し、畠山秋高が守護となって高屋城に入った。 康長と三人衆は支配を諦めたわけではなく、早くも翌12年(1569)正月に上洛して、将軍を襲撃した(本圀寺の変)。 この襲撃は失敗に終わったが、康長の反攻は始まったばかりであった。 翌元亀元年(1570)に幕府の朝倉氏征伐がの離反によって失敗すると、康長と三人衆は活動を活発化させ、と結ぶことで摂津西部を確保した。 康長の狙いは「河内」の再興であった。 精力的に軍事行動を展開し、畠山氏と戦うなど河内南部奪回を目指した。 しかし、徐々に三好方は旗色が悪くなっていく。 元年(1573)になると、の勢力伸長が著しく、、、三好義継が滅ぼされ、三人衆の活動は確認できなくなり、は京都から追われた。 の政権が樹立されたのである。 一方で、河内南部では畠山氏の・遊佐信教が畠山秋高を殺害し、康長は信教と手を組むことで高屋城主に返り咲いた。 康長にとっては、同盟相手がいなくなる一方「河内」の再興に成功していた。 だが、はと結んでいる「河内」を放置するはずもなかった。 3年(1575)4月、信長は攻めと見せかけて、河内南部への進撃を開始し、香西越後守と十河重吉が守る新堀城を落城させた。 守りの要と位置付けていた新堀城の陥落に、康長は戦況の不利を悟り、松井友閑を通じてに降伏した(この時旧主実休秘蔵の茶器である「三日月」を献上している)。 すると、信長はあっさり康長の自身への帰属を認め、河内南部の支配を認めた。 背景としてはが東方で軍を起こしており、信長としても同盟者であるを救援せねばならず、康長に掛かりきりではいられない事情があった(この直後に有名なが起こることになる)。 三好康長としては 願ったり叶ったりの待遇だった。 康長は「河内」を再興したとはいえ、すでに信長に従っていた畠山旧臣たちもおり、河内南部を総じて支配できていたわけではなかった。 それが信長に降伏することで、逆に信長からを与えられて、旧畠山分国をそっくりそのまま手に入れることが出来たのだ(逆に「阿波三好家」としてはの支配地域を全て失ったが)。 康長はいきなりのに列したのである。 2 三好康長の家臣としての活動 臣としての三好康長の最初の活動はとの和睦を、松井友閑とともに仲裁したことである。 3年(1575)12月 康長は友閑とともに和睦を保障する起請文に署名している。 しかし、この和議は信長に敵対する将軍がを調略したことで、翌4年(1576)2月には早くも壊れた。 4月に信長はを討つべく再び出陣し、原田直政(塙直政)、惟任光秀、長岡藤孝、らを包囲陣として配置した。 康長は河内衆を率い、原田直政の軍に属していたようだ。 しかし、5月3日織田軍は先陣を三好康長、2番手を原田直政として木津砦に攻撃をかけたところ、からの猛襲を受け、直政が塙一族らとともに奮戦して討死する傍ら、 康長は逃亡して織田軍は崩壊した。 この敗報を聞いたは急遽出陣し、光秀の籠る砦の窮状を知るや、5月7日兵数が揃わないうちに軍に突撃し勝利した(の戦い)。 の軍勢の鉄砲によって信長自身が負傷して手にした勝利であった。 この戦後処理において、 信長が原田直政の塙一族を粛正したことは、近年有名になってきたところである。 信長は敗北した直政の責任を重く見たのだろう(直政が死んで粉飾決済がバレたという話もある)。 しかし、そもそも敗戦時の先陣を務めていたのは三好康長で、 康長がとっとと逃げたのに比べると直政は奮戦したぶん頑張ったとも言えるのではないだろうか。 この後康長が外交に関わることはなかったので、取次更迭というペナルティはあったのかもしれないが、 康長はその後もの地位を失わず、責任を問われることはなかった。 康長はその後も攻めに動員されつつ、領国となった河内南部の統治を進めていたらしい。 こうした中、康長の旧主である「阿波三好家」は激変していく。 4年(1576)三好長治はかつて阿波を治めていた細川讃州家の子孫・細川真之や一宮成助、伊沢頼俊に離反され戦死した。 一方で阿波の勢力全てが真之らに従ったわけではなく、三好越後守や矢野守らは「阿波三好家」の統治を維持せんと、本拠地である勝瑞城を確保した。 この内紛は基本的に阿波の国内問題で、どの勢力がどの外部勢力と手を結ぶのか、各方面から注視されていた。 の四国政策とは上洛以来、三好氏征伐にあった。 阿波三好家も基本的にを支援する側で、この文脈からを支援し、篠原長房らをに派遣していた。 これは信長とが決別しても、阿波三好家が義昭方に組み込まれることで継続した。 信長は阿波三好家を討つべく、細川信良に命じての香川氏を調略もしていたが、 最も大きな施策はのの支援であった。 長宗我部氏への取次となったのは 惟任光秀で、これは光秀がや氏を通じて、長宗我部氏と縁戚にあるからだった。 信長は元親の子に「信親」の名乗りを与えるなど、長宗我部氏を厚遇したのである。 はの後援の下、三好氏討伐という名分を獲得して、阿波へ侵入していくことになった。 元親が提携相手として選んだのは 三好式部少輔である。 勝瑞城を本拠にする三好越後守らは堺から 三好存保()を招聘して「阿波三好家」を再興した。 細川真之や一宮成助らは長宗我部氏や「阿波三好家」と組んだり離れたりして第三勢力としての位置を保った。 戦国時代でも、三好氏によって穏便に統治されてきた阿波は真の意味で戦国時代に突入した。 はもちろん長宗我部氏を支援する姿勢を崩さない、と思いきやこの頃から織田・長宗我部間外交は徐々に隙間風を生じ始める。 かつて「阿波三好家」のであった三好康長が故郷・阿波の内紛に当初から主体的に関与したかは定かではないものの、8年(1580)に伴い阿波にやって来て勝瑞城を奪った・の牢人衆がの「」を標榜していたことと康長が近く讃岐に派遣されるという噂は元親を刺激している。 前者は牢人衆が勝手に自称しただけという可能性もあるが、康長は9年(1581)2月に讃岐経由で阿波に入国し、長宗我部氏に通じていた三好式部少輔を調略しての味方に付けている。 これを受け、と長宗我部氏の利益調停を図るためか、信長と康長は式部少輔と長宗我部氏の融和を図った。 信長朱印状には以下のような康長の副状が付けられた(宛名である「香曽我部安芸守」は元親の弟である香宗我部親泰のこと)。 爾来不申承候、仍就阿州表之儀、従 信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申旨候、随而 同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就忩劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎、於我等可為珍重候、恐々謹言、 六月十四日 康慶 香曽我部安芸守殿 御宿所 この頃は 「上様」と尊称されるのが定着していたを 「信長」と呼び捨てに出来る康長の地位が偲ばれる(一応この頃でも家臣による「信長」呼び捨ては例がないわけではない)。 内容としては丁重に同族・式部少輔の地位確保を頼むもので、康長が長宗我部氏を敵視するようなニュアンスはない。 ただし、長宗我部氏が勢力伸長する中でも三好一族の権利維持を訴えたものと見る事もできよう。 この頃信長周辺に長宗我部氏のことを讒言する者がいたらしく、讒言者が康長である可能性もあるが、確証はない。 そして、三好康長が織田政権の讃岐・阿波担当者であることがより明確化されていく。 9年(1582)11月の松井友閑書状では 「就其阿・讃之儀、三好山城守弥被仰付候」という表現が出ている。 阿波・讃岐両国は康長が統括するという方針が示されたのである。 しかし、この方針は同時に、ここまで自力で阿波に勢力を拡大してきた長宗我部氏を認めない意志をちらつかせるものでもあった。 10年(1582)1月は征伐に出陣するが、同時に康長に四国渡海を命じた。 征伐が終わると信長は三男・信孝に次のような朱印状を与えた。 就今度至四国差下条々、 一、之儀、一円其方可申付事、 一、之儀、一円三好山城守可申付事、 (略) 万端対山城守、成君臣・父母之思、可馳走事、可為忠節候、能々可成其意候也、 十年五月七日 三七郎殿 長宗我部氏が進出していたは「一円」三好康長に与えられることになり、信長の眼中にもはや長宗我部氏はなかった。 さらに自身の子である信孝に対し 「康長を親とも主君とも思え」と訓戒している。 実際信孝はこの後康長の養子になったようだ(全然関係ないが、信孝の仮名「三七郎」は見事に信長の「三郎」と康長の「孫七郎」の合体名になっている)。 信長は将来的な信孝の継承ありきではあるが、「阿波三好家」再興に大きく方針を転換させたのである。 康長は2月以降すでに阿波に渡り、織田の大軍来襲を宣伝しつつ、勝瑞城に入っていた。 「阿波三好家」の看板を持っていた三好存保とも結んだ康長には雪崩を打つように阿波三好家の残党が加わり、一宮城や夷山城を攻略するなど織田軍渡海への準備を進めている。 もこの勢いの前に、5月21日付けで海部城と大西城を残して阿波から撤退するという譲歩を示す書状を認めた。 神戸改め三好信孝を主将、惟住長秀を副将とする大軍が四国渡海を前に堺に続々集結し、織田政権による「阿波三好家」再興の時は目前に迫っていたのである。 ところが、6月2日京都に滞在していた・信忠父子を惟任光秀が襲撃し、両者を討ち取った()。 この事件が伝わった堺ではパニックで軍勢が離散してしまい、康長も信長という後ろ盾を失ったとあっては阿波に留まり得ず、に逃亡した。 こうして、 信長のとしての康長のキャリアは、主君の死によって突然終わった(もちろんそれで臣ではなくなったわけではなく、康長はとの提携に活路を見出していくことになる)。 以上、としての三好康長を概観した。 の人材登用と言うと 信賞必罰というイメージのある方もいるだろう。 しかし、康長は何か取り立てて役立ったと言えるのだろうか。 もちろん積極的な活動が見られない5年(1577)~8年(1580)も史料が残っていないだけで精力的に活動していた可能性はある。 しかし、の戦いでの康長の行動は明らかに失態であり、責任を負わなかったのは奇妙にも映る。 康長の上司とも言い得る原田直政の塙一族やが粛清された時も康長には全く累が及ばなかった。 また、8年(1580)まで康長は目立った活動がないが、以降の信長は長宗我部氏に冷淡になり、康長を通じて阿波三好家再興にのめり込んでいく。 そして康長は讃岐・阿波の統括者になり、信長の子・信孝をして親や主君に比される存在となる。 このような存在としては譜代や叩き上げである河尻秀隆やがいるが、康長が長らく信長の敵であった新参であることを思えば、この待遇は 破格と言えるだろう。 しかし、重ねて言うが康長の何の行動が、彼の織田政権でのかくも高位を与えているのだろうか? 何を訝しがっているのかわからない人もいるだろう。 要するに順序が違うのではないかということである。 しかもその過程で、、惟任光秀は織田政権で約束されかけていた地位を失っている。 換言すれば、は三好康長に 「や従来の外交を排除してまでも将来的にものすごく役に立つ」何かを見出していたということになるだろう。 3 征伐に見るの軍事観 ところで唐突であるが、の軍事とはどういうものであったか、簡単に見てみたい。 素材にするのは10年(1582)をあっという間に滅ぼした、いわゆる 「征伐」である。 と武田氏は本来同盟者であったが、元亀3年(1572)にが信長を裏切ったことで以降敵対していた。 は長年よく・徳川氏と戦い、領国維持に努めてきたが、9年(1581)3月を救援し得ず、の武田軍が全滅したことで 「天下の面目」を失った。 に従っていては、もしもの時に助けてもらえないという感情が勝頼旗下の国人たちに喚起されたのだ。 この効果はすぐに現れ、10年(1582)1月西衆・は勝頼から離反し、織田方に鞍替えした。 そこで信長はいよいよ勝頼を叩くべく、東国への出陣を決めた。 しかし、ここで見たいのはいかに織田軍がを滅ぼすかという道程 ではない。 に侵入した織田軍の主将は信長の嫡男・ であり、信長より一足先に出陣していた。 もちろん信忠の単独行ではなく、 河尻秀隆・といった老臣が信忠の補佐役として信長から付けられていた。 ただ、信忠軍は信長出陣を待つことなく、武田領国に先行していったのである。 信望を失った旗下からは多くの部将が離反し、信忠軍はどんどん深入りし、3月11日には勝頼を討ち取った。 あっという間に武田領国は崩壊し、織田軍の占領するところとなった。 結果だけ見れば、の大戦果であった。 しかし、 は先行し続ける信忠軍の動きを常に危惧していた。 信長は自身が出陣するまで、信忠軍がそれ以上の深入りをしないことを、・河尻秀隆・といった幹部に数日置きに厳命している。 しかし、 なぜはここまで信忠軍の突出を戒めているのであろうか?が急に逆襲してくる危険に怯えていたのだろうか。 あるいは、武田滅亡の戦功を信忠に独占されるのが気に食わなかったのだろうか。 もちろんそうではない。 織田軍が前進し続けること自体に問題があったと見るべきである。 その問題の端緒は、実は出陣の条々にすでに記載があった。 …在陣中 兵粮つゝき候様にあてかい簡要候… が常に危惧していたのは、信忠軍が先行し続けることで 補給が追い付かなくなることであった。 この信長の危惧は杞憂ではない。 事実、織田軍は3月中旬に兵糧の欠乏に陥り、脱走兵が出始めた。 信長は接収した武田軍の兵糧を分配し、また・から兵糧の支給を受けることでこの危機を乗り切ったが、もしも勝頼がもう少し粘れていたなら、織田軍は兵糧問題から快進撃を続け得なかったと考えられる。 そうなれば、あるいは取り残された織田軍は犠牲になり、信長にとっての「高天神」になることもあり得た。 信長が 「信忠が下手な動きをしたら、生きて帰ってきても二度と会わないからな」とまで言った背景とはこのようなことであった。 への意識から前線の際限ない拡大を危ぶむ信長の軍事センスは、80年ほど前のどこかの島国の首脳にも聞かせたいところだが、それはともかくとして。 は常にへの意識が高く、同時にそれを実現できる軍事システムは完成していなかったことが理解できる。 4 四国への直接介入の方法とは? ここで再び目を四国に転じよう。 さて、から四国へ行くにはどうすればいいのだろうか?戦国時代にはももない。 裸一貫大阪湾を泳げばいいのだろうか?いやそれにしても武具は携行できるのか?なんてアホな話をするのではない。 普通は船を使うものである。 謎のボケをてしまったが、から四国に行くにはどうやっても船を使うしかない。 船と言っても、大船団を形成するには、大量の木材と職人が要る。 通常のであれば、乗員は100人単位だし、武具や兵糧の支給も考えれば、万の軍勢を送るには3ケタを超えるレベルの船舶数が必要なのである。 さらに船があればそれで終わりではなく、航路の把握や安全の確保、船で行く先の最低限の治安維持も含めるとクリアすべき条件は多い。 要するに四国・間を大軍が移動するハードルは高い。 への意識が高いであればこそ、妥協は出来ない。 例えば、軍勢を四国へ送り込むとしても、途中で海賊に襲撃されるかもしれない。 上陸を果たしても補給が追い付かなくては、軍勢は四国で飢えてしまう。 もしも三好氏の軍と交戦し敗北を喫したら、帰りの船はないかもしれない。 そのためにも両岸に有力与党勢力がいなければならない。 せっかく派遣した軍勢が助けもなく全滅などという事態に至れば、は「天下の面目」を失うことになるだろう。 そういうわけで実際、は四国へ織田の軍勢を送ることはついぞなかった。 は上洛以降、幕府秩序の中で播磨や但馬に援軍を送り、何度も阿波三好氏討伐を訴えた。 しかし、 阿波三好氏討伐のために義昭幕府および信長がとった手段は常に調略だった。 軍事動員による「成敗」こそ効果的であろうに、信長は一度も四国に軍勢を派遣しなかった(出来なかった)。 別に信長を侮っているわけではなく、すらないのだから当然のことである。 ところで、ここからが本題である。 何と戦国時代には・四国間に自由に大軍を移動させることが出来た勢力がいた (前振りである)。 澄元系と三好氏である (ババーン!)。 彼らはで苦境に陥った際、常に四国勢を渡海させ、その合力でもって対抗勢力に勝利してきた。 その規模は記録類にもよるが、5000~2万くらいで、だいたい1万人ほどが来ていたと考えて良い。 四国勢の有無で戦局が左右されるのだから、小勢なはずがあるまい。 四国勢は・三好氏の要請があると、基本的にそれを拒否することはなく、大軍を送り込めた。 関係史料が少なく滅多な事は言えないが、その動員はシステム化されていたと見られる。 では、三好氏(と)はどうやってこの動員を可能にしていたのか。 要因としては以下のものが挙げられよう。 大阪湾に面した摂津・和泉と対する讃岐・阿波という両岸に勢力を有していた• 淡路の水軍の棟梁・安宅氏に養子を入れ(安宅冬康)、淡路の水軍を傘下とした• 四国は木材の産地で船を作る資材に事欠かない(撫養には舟座があった)• 尼崎、兵庫、堺といったを掌握し、三好氏の政商を作って利害関係を一致させた 最近、権を 「環大阪湾政権」、織田政権を 「環伊勢湾政権」と規定して、両者の共通点と差異を語る説に出くわしたことがあるが、「環伊勢湾政権」と「環大阪湾政権」の違いとしては、後者はの大軍輸送を伴っていたことがあるだろう。 三好氏は人的ネットワークによって、大阪湾・東瀬戸内海のを握り、これがの大軍動員を可能にしていたのである。 そして三好氏が掌握し続けてきたこの優位性は、義昭幕府や織田政権が生まれてもすぐに失われたわけではない。 信長上洛の際、や篠原長房は阿波へ退避したが、は阿波から出撃する三人衆や康長を撃退することは出来ても、逆に阿波に攻め入ることは出来なかった。 三人衆や篠原長房は阿波に逃亡したり、阿波からに出撃したりしているが、の勢力は一度も四国とを往来できなかったのは真に対照的である。 信長は尼崎を放火したり、堺から矢銭を献上させて屈服させようとしたが、堺は実際には矢銭献上後も性を保ち、三好氏の要人が滞在するなど、織田方に完全に組み込まれたわけではなかった。 が信長に長年抵抗できたのも、が大阪湾を制し得なかったために、補給が自由に出来たという側面もあった。 三好氏が約50年かけて築いた大阪湾での地位は、新参のがすぐさま奪ってしまえるものではなかった。 さらに信長の「環伊勢湾政権」は大軍の輸送の経験が乏しいもので、で登用した家臣団もノウハウがあるわけではない。 織田人脈が大阪湾に食い込んでいくには、本来様々な試練を伴うものであった。 5 三好康長の役割 そろそろ結論が見えてきた人もいるのではないだろうか。 8年(1580)が屈服し、織田政権はようやく大阪湾の支配に乗り出す。 翌9年(1581)11月には・が淡路の反織田勢力を駆逐し、淡路をようやくの勢力圏に入れた。 もっとも淡路のは三好一族の安宅神五郎(実休の子で存保の弟にあたる)がリーダー格である体制が存続したようである。 こうしてようやく織田政権は四国へ派兵可能な条件を揃え、10年(1582)5月に準備された四国攻めに繋がって行く。 だが、9年(1581)も暮れになって織田政権が渡海派兵の準備をしたのを余所に、 臣としての三好康長はそれ以前からと四国を往来できていた(2次史料出典なので確証に欠けるが、一度ではなく複数回行ったり来たりしている)。 単に使者として一人で移動すればいいわけではなく、康長の渡海はが警戒したように、 数百レベルかもしれないが軍勢を伴っていたはずである。 すなわち、康長は織田政権が大阪湾に進出する前から、大阪湾を軍勢で往復していたということになるだろう。 一体どういうことなのか。 これこそが康長に期待された三好ブランドだろう。 茶人として名高い康長は堺の商人にも顔が利いたし、阿波にも基盤があった。 何より康長は永禄からまで信長の敵としてではあるが、何度も軍勢を伴って大阪湾を移動し、そのノウハウを熟知していたのである。 にとって、三好康長は四国に介入するための切符のようなものだった。 そして、この切符を持っているのは康長 だけだった。 原田直政やが持っていないのはもちろん、も持っていなかったし、長宗我部氏の取次であった惟任光秀にも大阪湾に大軍を動かす術はなかった。 信長は三好康長の経験と知識に頼らざるを得なかったのであり、その過程で四国政策に関係する可能性のあるは姿を消して行った。 彼らとて、じゃあ四国へ大軍を送ってくれと言われても困ったであろう。 これは長宗我部氏とて同じことであった。 元亀2年(1571)に土佐一条氏のが将軍に鷹を献上したことがあったが、そのルートに介在したのは阿波三好家の・篠原長房と三好義継だった。 土佐の勢力も基本的に阿波三好家の四国・間流通を用いてと連絡していたのである。 さらにの阿波進軍ルートも陸路によるもので、その四国統一に最後まで抵抗したのが阿波三好家旗下の経歴を持つ森水軍であったのが象徴的であるが、勢力拡大といっても阿波沿岸のを握れたわけではなかった。 つまり、 長宗我部氏がどれだけ阿波に侵入しても、その成果として織田の大軍を迎え入れることには繋がらなかった。 が軍事動員を以て四国介入を成すには、どれだけの戦争で役に立たなかろうが、三好康長(の持つ三好氏の伝統的な)を用いるしかなかった。 これが歪な人事になってまで、康長が優先された理由と考えたい。 信長が長宗我部氏に冷淡になって行くのも、本質的にはその勢力拡大が織田軍の四国直接介入に直結しないという事情が本質に近いのではないだろうか。 もちろん信長がただ康長に引っ張られたわけではなく、康長も織田政権の威光があってこそ、四国介入に内実が伴った(後、康長がとっととに引き揚げたのも信長の威光なくては四国にいるのが危険だったからである)。 こうして考えると、康長の最後の動向が豊臣政権によるいわゆるに見えるのは象徴的である(康長が降伏したを出迎えたという)。 以降、三好康長はいつ死んだのかもわからず、記録から消える。 権に代わる中央政権が、での大軍輸送と補給が可能となったその時を境にして、康長の存在意義は消えたのである(もちろん康長ら三好氏の家臣経歴を持つ者たちは少なくない数が豊臣大名の家臣に転じており、その流通・貿易に関する技能はその後も陰に陽に命脈を保った)。 (どうですか?ゲームとかでも康長ら三好氏人脈を雇わないと四国介入できないみたいな縛り作ってみない?(現実の康長贔屓がの一因になったみたいに、絶対どっかで既存の家臣に裏切られそう)) 参考文献 : 論者によっては秀吉と康長の関係を織田政権時代からとする人もいるが、私は秀吉と康長が関係を構築していくのは信長死去後であると考えている : ただ、の性向的にあまり相手のことを考えず、自分の利益のみの拡大を図ってしまうのはよくある : 式部少輔は康長の息子ともされるが、書状中では「同名」すなわち同族という言及しかないので実際息子なのかどうかは不明である : ちなみに『』は兵糧のk欠乏には一切触れず、信長が兵糧を分配したので皆喜んだという記述に終始している。 なぜ喜んだのか、背景がないとわからんとも思うが、は書きたくなかったらしい : の入国がこの時であるというのは後世の編纂記録のみでしか確認できない hitofutamushima.

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