ぜん ちく と みた ろう 写真。 公演情報詳細|文化デジタルライブラリー

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パソコン絵画徒然草-奈良散歩記:長谷寺 パソコン絵画徒然草 == 奈良散歩記 == 第11話:長谷寺 これまでの奈良散歩で、奈良盆地にある主な名所はあらかた訪れたことになる。 この先どこに行くかだが、一つの案としては、今まで行ったところより知名度の劣る場所に足を延ばすという手がある。 もう一つは、奈良盆地を出て山に分け入るということも考えられる。 ただ、私の場合自家用車がないし、バスはあまりあてにならない交通機関なので、駅からアクセス可能という制約の中で考えないといけない。 奈良盆地内で知名度のやや劣るところとなると、例えば、お城と金魚で有名な大和郡山(やまとこおりやま)、橿原神宮や本薬師寺跡、藤原宮跡を巡る橿原(かしはら)、二上山(ふたかみやま)の麓にあり當麻寺(たいまでら)で有名な当麻(たいま)といったところなら、電車でアクセス可能である。 一方、山に分け入るとなると、長い登廊と見晴らしの良い舞台で有名な長谷寺(はせでら)、女人高野の別名を持つ室生寺(むろうじ)、十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)で有名な談山神社(たんざんじんじゃ)のある多武峰(とうのみね)、桜で有名な吉野山(よしのやま)といったところなら、麓に電車の駅がある。 ただ、室生寺、多武峰は標高差3~400mの山登りを含めて往復15キロ程度の道のりを覚悟せねばならず、吉野山も、行ってみたい西行(さいぎょう)の庵跡までケーブルカーの駅からですら往復10キロの山道を歩くことになる。 日の暮れが早い晩秋から冬にかけてはちょっと無理な話である。 色々迷った挙句、一度試しに山に行ってみようかという結論になり、紅葉見物を兼ねて長谷寺に行くことにした。 長谷寺は駅からさして遠くないし、山に登るという苦労はあるが、標高差からいっても歩く距離からしてもたいしたことのない道行きである。 実はこの日の前日に、勤務先の同僚たちと連れ立って和歌山県まで行き、熊野古道(くまのこどう)を歩いて来たところなので、今日のところは無理をせず、おとなしめに歩こうかという考えもあってのことである。 季節は11月の中旬、山の方では紅葉がかなり進んでいるだろう。 JR環状線の鶴橋駅から近鉄大阪線急行に乗り替える。 本来長谷寺は急行停車駅ではないのだが、「長谷寺もみじまつり」の期間中なので臨時停車するという。 ラッキーと思うか、それだけ人が多いと考えるかは、受け取り方次第だが、多くの人は車で長谷寺まで行くので、電車はさしてこんでいない。 座ってのんびりと長谷寺に向かう。 45分で長谷寺駅に到着した。 長谷寺駅は、前回山の辺の道散策の際にも利用した近鉄桜井駅の2つ先になる。 そこから更に2駅先が、室生寺のある室生口大野駅という位置関係だ。 桜井駅は平地だが、そこから先に進むと山あいに入り、長谷寺駅に着いてみると山の中腹である。 駅のある山を降りて、国道を渡り、その先の山を登ると長谷寺があるという位置関係になる。 まずは駅から続く階段と坂道を降りるが、結構高いところにあることが分かる。 帰りに再びここを上るのかと思うとうんざりするほどの高さだ。 ちょうど駅に向かって階段を上がって来た年配のご夫婦がいたが、ゼイゼイ言いながらしんどそうにしている。 年寄りや足の不自由な人にはなかなか酷である。 ようやく麓に下りて交通量の多い国道を横断する。 その先に橋があり、そこを渡ると長谷寺の参道に突き当たる。 この参道が、以前、山の辺の道の海柘榴市跡(つばいちあと)のところで出て来た古代からの交通路、初瀬街道(はせかいどう)である。 長谷寺の参道入り口はもっと手前にあるようで、かなり長い参道と言えよう。 途中から参道に割り込む形になったが、それでも長谷寺まで1km弱くらいは歩いた気がする。 最初は南西から北東方向に道が延び、突き当たりで直角に曲がって北西方向に進む。 角を曲がるまでは鄙びた商店街といった感じだが、角を曲がってからの150m程度は如何にもお寺の門前といった賑わいで、幾つもの店が長谷寺名物の草餅を焼いて売っている。 ただ、かなわないのは、この参道が自動車道でもあることだ。 車がすれ違うのがなかなか難しいくらいの細さのところに、この時期たくさんの車が押し寄せる。 長谷寺に向かう車と帰る車が行き合い大渋滞になるため、歩行者は車の間を縫って歩く。 あそこが自動車道でなければ、もう少し草餅が売れる気がするがなぁ。 参道が終わり、別方向の自動車道と交差するところに長谷寺の入り口がある。 長くゆるやかな登り道を歩くと仁王門にたどり着く。 門を入ったところから有名な登廊(のぼりろう)が山上まで続く。 入り口でもらったパンフレットを読むと、奈良時代に天武天皇(てんむてんのう)の勅願で道明(どうみょう)上人が山の西の丘に僧院を開き、天皇の病気平癒のため、千仏多宝仏塔を描いた銅板法華説相図(どうばんほっけせっそうず)を鋳造して本尊として祀ったのが長谷寺の始まりらしい。 仏像ではなく銅板が本尊だったというのが面白い。 この銅製の法華説相図は現存しており、国宝として奈良国立博物館が保有しているようだ。 ただ、伽藍は何度も焼失しているため、奈良時代のものは残っていない。 現在の本堂は国宝だが、江戸時代に三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進で造営されている。 登廊の方は元々、平安時代に春日大社の社司が子供の病気快復のお礼に寄進したようだが、上中下の3階層あるうち、下廊、中廊は明治時代の再建らしい。 境内には五重塔もあるが、こちらは戦後の建築である。 こうして見てみると、古くて新しい寺と言えようか。 登廊は、長い石段の上に屋根をつけたものと思えばいい。 屋根から吊るされている灯籠は長谷型灯籠と呼ぶようだが、なかなか味わいのある形である。 大晦日の夜になるとこの灯籠に加えて登廊の両側にたくさんの灯籠を並べる観音万燈会(かんのんまんどうえ)が行われる。 写真で見ると、なかなか幻想的で趣がある。 階段は全部で399段だが、一段一段はそれほど高さがないため、さほど苦労せずに本堂まで上がれる。 長谷寺の伽藍は、この登廊も含めてほとんど山の斜面に建てられており、長谷寺のある山の名を初瀬山(はつせやま)と言う。 周辺の地名は初瀬(はせ)であり、昔は泊瀬(はつせ)と呼ばれていたらしい。 万葉集にも泊瀬の名で登場する。 そのため、長谷寺も初瀬寺、泊瀬寺の別名があると寺の縁起に記されていた。 登廊を登り切ると本堂に出る。 本堂も山の斜面に建てられているため、木の柱で組まれた基礎で支えられており、構造は京都の清水寺(きよみずでら)と同じである。 この木の柱の上に、せり出すように舞台が造られており、これもまた清水寺と同じである。 舞台からは山の斜面に並ぶ伽藍を一望でき、私が行ったときには、向かいの山も含めてきれいに色付いた紅葉を楽しむことが出来た。 本堂は大きな造りで、構造はかなり複雑である。 まず、現在の本尊である十一面観世音菩薩像(じゅういちめんかんぜおんぼさつぞう)が安置されている中心部分を内陣(ないじん)と言っている。 その外側に屋根付きの内舞台というホールのような空間があり、更にその外側に、写真にある舞台がせり出している。 この内舞台と外に突き出した外舞台を合わせて礼堂(らいどう)または外陣(げじん)と言うと、寺の案内にあった。 私が行った日には内舞台で、同じ宗派の若い僧侶有志による奉納太鼓演奏をやっていた。 奉納太鼓とは言うものの、演奏者も観客もコンサートの乗りである。 厳粛な宗教行事以外のことでも使えるスペースなのだろう。 こうして見ると、よく考えられた構造であり、工夫次第ではお寺の活動にも広がりが出来る。 ちなみに、本尊にお参りをする人は、内陣と外陣の間を通る通路のような空間で拝観することになる。 この日はたまたま本尊の十一面観世音菩薩像の特別拝観というのをやっており、なんと本尊の足元まで行って直接足を触れるようになっていた。 面白そうなので、信心のない私も参加してみた。 最初のご本尊は銅板法華説相図だったわけだが、現在は十一面観世音菩薩像ということになっている。 パンフレットによれば、道明上人が僧院を開いた90年ほど後に、聖武天皇の勅願により徳道(とくどう)上人がこの観音像を山の東の丘に祀ったとされている。 観音像は近江の国の楠の霊木を用いて3日間で造り上げられたとあるが、高さは10m以上あり、巨大なものである。 この観音像により、平安時代になって長谷寺は観音信仰の中心的存在として広く貴族の信仰を集めて栄えることになる。 そしてその信仰は、後世になって武士や庶民にも広まり、西国三十三所(さいこくさんじゅうさんしょ)巡りの中心的なお寺として今でも多くの参拝客を集めている。 ご本尊が銅板法華説相図のままだったら、長谷寺の運命は変わっていたかもしれない。 さて、そのありがたい観音像を間近で見ようと、本堂の脇から内陣に入る。 身をかがめないと歩けない舞台裏のような廊下を進むと、観音像の足元の狭い空間に出る。 その大きな足を触って願いを唱えればかなうというのがお寺側の説明で、毎年この特別拝観を実施しているせいか、足の部分は金箔が剥げてテカテカに黒光りしている。 足元から見上げるとすごい迫力で、その高さが実感できる。 通常の拝見だと、この上半身辺りを格子戸の向こうから眺めて拝むことになる。 足に触って拝んだ後は、右回りで観音像を一周するしきたりのようで、じかに仏像を見上げながらぐるりと回る。 囲いも何もない巨大な仏像を目の前で眺められる滅多にないチャンスである。 仏像の背後なんてなかなか見る機会がないが、こうして見てみると、後ろ側は仕上げが荒めになっているので木製だということがよく分かる。 仏像の特別拝観といってもなかなか食指の動かない私だが、これは面白い体験だった。 本堂を出た後は山の中腹を巡りながら境内を見て周ったが、かなりの広さなのでウォーキングにはちょうどいい。 お寺からもらったパンフレットには、参拝ルートとして開山堂ルート(所要30分)と奥の院ルート(所要40分)の道案内が地図に記されているが、当然のこととして両方回る。 最初は奥の院ルートを周ることにした。 本堂の脇からスタートして、昭和59年に建立された弘法大師御影堂(こうぼうだいしみえどう)の前を通り、本長谷寺(もとはせでら)へ出る。 ここが、最初に道明(どうみょう)上人が僧院を開いたとされる西の丘の場所である。 そのすぐ横に五重塔があるが、これは先に述べたように戦後に建てられている。 昭和に建てられた二つの建物に挟まれて、最も古い長谷寺発祥の地があるというのも面白い構成である。 この五重塔のそばに、三重塔跡というのがあり、礎石だけ残っている。 長谷寺には元々三重塔があったが、明治初期に落雷に遭い消失したらしい。 その後三重塔は再建されなかったが、戦後になって戦没被災者慰霊のためにこの五重塔を建てたようだ。 三重塔の再建という形にならなかったのは、慰霊碑という新たな性格ゆえ、別の形で塔を建てる必要があったということだろうか。 五重塔から先はほとんど観光客のいないエリアで、墓地と納骨堂がある。 奈良時代創建のお寺で一般の先祖供養もしている例は、あまりないのではないか。 更にその先に長谷寺の塔頭寺院である陀羅尼堂(だらにどう)があり、ここから道は下りになる。 下り切ると登廊の脇に出て、そこを南に行くと修行のための本坊がある。 長谷寺というのは屋根付きの登廊があるせいか、本堂全体を見渡せる場所が少ない。 こうして歩いている道も、木々が邪魔をして本堂は垣間見える程度である。 そうした中で、本堂をきれいに見渡せる絶好のエリアが、この本坊である。 冒頭の写真もこの本坊から撮影したもので、たくさんの人たちがカメラを構えていた。 私はたまたまルート通りに回っていてこの場所を発見したが、本坊に通じる道の脇から出口に向かう西参道が延びているので、多くの観光客は本坊には寄らずに帰ってしまう。 惜しい話だ。 さて、ここからは開山堂ルートに乗り換えて、一旦降りた道を別ルートで本堂まで上がって行く。 写経殿である六角堂の脇を上がり、開山堂の前に出る。 この開山堂に、先ほど述べた徳道上人が祀られている。 長谷寺を観音信仰の霊場として売り出した功績を考えると、中興の祖と言えるかもしれない。 国宝の銅板法華説相図を奈良国立博物館に譲ったことから見て、道明上人の方はやや冷遇されているのだろうか。 本堂に戻ると奉納太鼓演奏は終わっていた。 もう一度外舞台に出て、のんびりと紅葉を楽しむ。 ハイシーズンとは言え、この程度の観光客で済んでいるのならラッキーと思わねばなるまい。 この数日後にたまたま京都へ行ったおり、昼休みに近くの南禅寺を少しばかり覗いたが、観光客であふれかえっており、京都と奈良の人出の違いを実感した。 南禅寺の紅葉も美しかったが、ここ長谷寺で静かに眺めた紅葉の方が心に残った。 私が行った時期はもみじまつりをやっていて紅葉見物の客で賑わっていたが、長谷寺の売りは紅葉だけではない。 むしろ花の寺として有名で、高浜虚子も「花咲かば堂塔埋もれつくすべし」の句を詠んでいる。 とりわけ登廊の両脇を牡丹の花が埋め尽くす5月が、最も見物客で賑わう時期だと聞く。 その数、150種7000株と寺の案内にある。 「牡丹の長谷寺」の異名もあるそうだ。 この牡丹は、唐の第21代皇帝僖宗(きそう)の妃だった馬頭夫人(めずぶにん)が、美しくなりたいと長谷寺に願掛けをし、そのお礼に牡丹を送ったのが始まりであるらしく、それを植え継いで今の数になったとされている。 馬頭夫人の願いが本当にかなったのかどうか知らないが、長谷寺の登廊の脇に馬頭夫人を祀る小さな社がある。 長谷寺は牡丹以外に、四季折々の花を楽しめる。 お寺のパンフレットには、各月ごとに鑑賞できる境内の花を列挙しているが、1月の寒桜、冬牡丹、さざんか、蠟梅に始まり、2月以降、福寿草、梅、椿、雪割草などが並び、その数は数十種類と驚くばかりの多さである。 桜も有名らしいが、3月の寒緋桜、大島桜、河津桜から、4月の山桜、染井吉野、奈良八重桜、紅枝垂桜、鬱金桜、御衣黄桜まで、たくさんの種類が長きにわたり咲き誇るようだ。 花の好きな人なら、四季折々いつ訪れても楽しかろう。 さて、奥の院ルートと開山堂ルートを周り終えて、このまま登廊を降りて帰っても良かったのだが、登廊の途中にある脇道を東に進み、「二本(ふたもと)の杉」を見に行くことにした。 この杉が何であるかを理解するためには、源氏物語(げんじものがたり)に通じていなければならない。 長谷寺は、平安時代に多くの貴族に崇拝されていた寺で、源氏物語のほか、清少納言(せいしょうなごん)の枕草子(まくらのそうし)や菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘の手になる更級日記(さらしなにっき)、藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母による蜻蛉日記(かげろうにっき)など、数々の古典文学に登場する。 おそらく作者たちも参詣していたはずで、紀貫之(きのつらゆき)の歌碑も境内に残っている。 さて、源氏物語だが、二本の杉が登場するのは玉鬘十帖の先頭に来る、第22帖「玉鬘(たまかずら)」である。 主人公の光源氏(ひかるげんじ)に愛された夕顔(ゆうがお)は、内大臣頭中将(とうのちゅうじょう)との間に玉鬘という娘をもうけるが、玉鬘が4歳の時に夕顔は死霊に獲りつかれて亡くなる。 その後玉鬘は乳母に連れられ筑紫の国に移り住み成長するが、地元豪族との望まぬ結婚から逃れるため、ひそかに京にのぼり、死んだことを知らぬまま母との再会を果たそうとする。 一方、夕顔の侍女であった右近(うこん)は、夕顔の死後、光源氏に仕えていたが、夕顔の忘れ形見である玉鬘を探していた。 右近は、長谷寺参詣のために海柘榴市(つばいち)に泊まるが、ここでたまたま玉鬘一行を見つける。 その際、右近が詠んだ歌に二本の杉が登場するのである。 「二本の杉の立ちどを尋ねずは ふる川のべに君を見ましや」 これに応えて玉鬘が 「初瀬川はやくのことは知らねども 今日の逢う瀬に身さへながれぬ」 と歌を返す。 この後、玉鬘は光源氏に引き取られ、数々の公達の求婚を受けることになる。 右近が長い間探していた玉鬘に会え、それによって玉鬘が幸せになれたのは、長谷寺の観音様のご利益によるものという背景があってのエピソードであり、それだけ長谷寺が人々の信仰を集めていたことが伺える。 この玉鬘の話は、後に金春禅竹(こんぱるぜんちく)の謡曲「玉鬘」にも登場する。 この謡曲については二本の杉のところに案内板があったが、長谷寺詣での僧侶の前に玉鬘の霊が現れ、二本の杉の前に僧侶を連れて行って、自分が母の侍女だった右近と巡り会えた話をするというストーリーである。 二本の杉の先には、藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)の碑と息子定家(ていか)の塚がある。 藤原定家は「新古今和歌集」の撰者で、「小倉百人一首」でも有名である。 新古今和歌集には定家が詠んだ長谷寺ゆかりの歌もある。 年も経ぬいのるちぎりは初瀬山 尾上の鐘のよその夕暮れ さて、この辺りを散策していると、誰でも気になる大きな銀杏の木が、向かいの山に見える。 この大銀杏は、ここだけでなく長谷寺の色々な場所から見えるため、観光客の目を引いていて、指差したり写真を撮ったりしている人も多い。 この大銀杏は、長谷寺の脇を流れる初瀬川の対岸にある素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の境内に生えている。 長谷寺のホームページでも紹介されていたもので、あまりの大きさに、見た瞬間、あぁこの銀杏のことを言っていたんだなとすぐに気付いた。 写真に写っている建物と比べると、その大きさが実感できるだろう。 単に大きな銀杏というだけではなく、この銀杏は別名「玉鬘の大銀杏」と呼ばれていると、長谷寺のサイトに記されていた。 先ほどの源氏物語の中で、長谷寺参詣に来た玉鬘一行が滞在した宿坊がここにあったとされているほか、玉鬘が晩年に隠棲した「玉鬘庵」もこの近くだったようだ。 せっかくだから、大銀杏を見に行こうと考え、長谷寺の東参道を麓まで降りて道路に出る。 初瀬川を遡るように川沿いを歩き、銀杏のある山の麓で橋を渡って神社に向かった。 橋を渡った先には案内板が2つあり、一つは素盞雄神社、もう一つは玉鬘庵跡と記されている。 手前の玉鬘庵跡を先に見ようと、竹やぶに続く石段を登って案内板の先を見ると、竹やぶの前に草地があり、そこが玉鬘の庵があった場所ということのようだった。 続いて素盞雄神社に向かう。 大銀杏の美しさに惹かれてか、玉鬘の大銀杏の話を聞いてかは知らないが、鄙びた小さな神社のわりには訪問者が途切れない。 写真右奥が素盞雄神社で、手前左側が玉鬘の大銀杏である。 銀杏のところに案内板があるが、ここには「初瀬のイチョウの巨樹」と紹介され、これが天然記念物に指定されている旨が記されているだけで、玉鬘のことは全く出て来ない。 よく考えれば当たり前のことかもしれないが、玉鬘は源氏物語の中に出て来る架空の人物で、従って、彼女が晩年を過ごした庵も現実には存在しなかったのである。 どういう根拠でここが玉鬘の宿坊や庵の跡だと推定されたのか知らないが、まぁ夢があると言えば夢がある。 源氏物語ファンならずとも、そう聞けばちょっとは関心を持つだろう。 やはり長谷寺自体が、平安朝の文学にたびたび登場するがゆえ、こんな名所が出来上がっているのだろう。 そろそろ日も傾きかけて来たので、駅に向かって参道を戻り始めた。 混雑する車の間をすり抜けながら参道を進み、来た時と同じところを回って国道を横断する。 その先の坂道と階段を登り、駅を目指した。 予想していた通り、長谷寺境内をウロウロし、山を昇り降りした後でこの長い階段を上がるのは、いささかうんざりする。 最後の階段の手前に来た時、前を歩いていた高齢の男性が上を見上げて「まだ階段があるのか」と嘆いておられた。 車で来るにせよ、電車で来るにせよ、長谷寺参詣はなかなか大変である。 この日の歩行距離は7km程度。 熊野古道を歩いた翌日だけに、これぐらいがちょうど良いと感じた散策だった。 C 休日画廊/Holidays Gallery. 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パソコン絵画徒然草-奈良散歩記:長谷寺 パソコン絵画徒然草 == 奈良散歩記 == 第11話:長谷寺 これまでの奈良散歩で、奈良盆地にある主な名所はあらかた訪れたことになる。 この先どこに行くかだが、一つの案としては、今まで行ったところより知名度の劣る場所に足を延ばすという手がある。 もう一つは、奈良盆地を出て山に分け入るということも考えられる。 ただ、私の場合自家用車がないし、バスはあまりあてにならない交通機関なので、駅からアクセス可能という制約の中で考えないといけない。 奈良盆地内で知名度のやや劣るところとなると、例えば、お城と金魚で有名な大和郡山(やまとこおりやま)、橿原神宮や本薬師寺跡、藤原宮跡を巡る橿原(かしはら)、二上山(ふたかみやま)の麓にあり當麻寺(たいまでら)で有名な当麻(たいま)といったところなら、電車でアクセス可能である。 一方、山に分け入るとなると、長い登廊と見晴らしの良い舞台で有名な長谷寺(はせでら)、女人高野の別名を持つ室生寺(むろうじ)、十三重塔(じゅうさんじゅうのとう)で有名な談山神社(たんざんじんじゃ)のある多武峰(とうのみね)、桜で有名な吉野山(よしのやま)といったところなら、麓に電車の駅がある。 ただ、室生寺、多武峰は標高差3~400mの山登りを含めて往復15キロ程度の道のりを覚悟せねばならず、吉野山も、行ってみたい西行(さいぎょう)の庵跡までケーブルカーの駅からですら往復10キロの山道を歩くことになる。 日の暮れが早い晩秋から冬にかけてはちょっと無理な話である。 色々迷った挙句、一度試しに山に行ってみようかという結論になり、紅葉見物を兼ねて長谷寺に行くことにした。 長谷寺は駅からさして遠くないし、山に登るという苦労はあるが、標高差からいっても歩く距離からしてもたいしたことのない道行きである。 実はこの日の前日に、勤務先の同僚たちと連れ立って和歌山県まで行き、熊野古道(くまのこどう)を歩いて来たところなので、今日のところは無理をせず、おとなしめに歩こうかという考えもあってのことである。 季節は11月の中旬、山の方では紅葉がかなり進んでいるだろう。 JR環状線の鶴橋駅から近鉄大阪線急行に乗り替える。 本来長谷寺は急行停車駅ではないのだが、「長谷寺もみじまつり」の期間中なので臨時停車するという。 ラッキーと思うか、それだけ人が多いと考えるかは、受け取り方次第だが、多くの人は車で長谷寺まで行くので、電車はさしてこんでいない。 座ってのんびりと長谷寺に向かう。 45分で長谷寺駅に到着した。 長谷寺駅は、前回山の辺の道散策の際にも利用した近鉄桜井駅の2つ先になる。 そこから更に2駅先が、室生寺のある室生口大野駅という位置関係だ。 桜井駅は平地だが、そこから先に進むと山あいに入り、長谷寺駅に着いてみると山の中腹である。 駅のある山を降りて、国道を渡り、その先の山を登ると長谷寺があるという位置関係になる。 まずは駅から続く階段と坂道を降りるが、結構高いところにあることが分かる。 帰りに再びここを上るのかと思うとうんざりするほどの高さだ。 ちょうど駅に向かって階段を上がって来た年配のご夫婦がいたが、ゼイゼイ言いながらしんどそうにしている。 年寄りや足の不自由な人にはなかなか酷である。 ようやく麓に下りて交通量の多い国道を横断する。 その先に橋があり、そこを渡ると長谷寺の参道に突き当たる。 この参道が、以前、山の辺の道の海柘榴市跡(つばいちあと)のところで出て来た古代からの交通路、初瀬街道(はせかいどう)である。 長谷寺の参道入り口はもっと手前にあるようで、かなり長い参道と言えよう。 途中から参道に割り込む形になったが、それでも長谷寺まで1km弱くらいは歩いた気がする。 最初は南西から北東方向に道が延び、突き当たりで直角に曲がって北西方向に進む。 角を曲がるまでは鄙びた商店街といった感じだが、角を曲がってからの150m程度は如何にもお寺の門前といった賑わいで、幾つもの店が長谷寺名物の草餅を焼いて売っている。 ただ、かなわないのは、この参道が自動車道でもあることだ。 車がすれ違うのがなかなか難しいくらいの細さのところに、この時期たくさんの車が押し寄せる。 長谷寺に向かう車と帰る車が行き合い大渋滞になるため、歩行者は車の間を縫って歩く。 あそこが自動車道でなければ、もう少し草餅が売れる気がするがなぁ。 参道が終わり、別方向の自動車道と交差するところに長谷寺の入り口がある。 長くゆるやかな登り道を歩くと仁王門にたどり着く。 門を入ったところから有名な登廊(のぼりろう)が山上まで続く。 入り口でもらったパンフレットを読むと、奈良時代に天武天皇(てんむてんのう)の勅願で道明(どうみょう)上人が山の西の丘に僧院を開き、天皇の病気平癒のため、千仏多宝仏塔を描いた銅板法華説相図(どうばんほっけせっそうず)を鋳造して本尊として祀ったのが長谷寺の始まりらしい。 仏像ではなく銅板が本尊だったというのが面白い。 この銅製の法華説相図は現存しており、国宝として奈良国立博物館が保有しているようだ。 ただ、伽藍は何度も焼失しているため、奈良時代のものは残っていない。 現在の本堂は国宝だが、江戸時代に三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の寄進で造営されている。 登廊の方は元々、平安時代に春日大社の社司が子供の病気快復のお礼に寄進したようだが、上中下の3階層あるうち、下廊、中廊は明治時代の再建らしい。 境内には五重塔もあるが、こちらは戦後の建築である。 こうして見てみると、古くて新しい寺と言えようか。 登廊は、長い石段の上に屋根をつけたものと思えばいい。 屋根から吊るされている灯籠は長谷型灯籠と呼ぶようだが、なかなか味わいのある形である。 大晦日の夜になるとこの灯籠に加えて登廊の両側にたくさんの灯籠を並べる観音万燈会(かんのんまんどうえ)が行われる。 写真で見ると、なかなか幻想的で趣がある。 階段は全部で399段だが、一段一段はそれほど高さがないため、さほど苦労せずに本堂まで上がれる。 長谷寺の伽藍は、この登廊も含めてほとんど山の斜面に建てられており、長谷寺のある山の名を初瀬山(はつせやま)と言う。 周辺の地名は初瀬(はせ)であり、昔は泊瀬(はつせ)と呼ばれていたらしい。 万葉集にも泊瀬の名で登場する。 そのため、長谷寺も初瀬寺、泊瀬寺の別名があると寺の縁起に記されていた。 登廊を登り切ると本堂に出る。 本堂も山の斜面に建てられているため、木の柱で組まれた基礎で支えられており、構造は京都の清水寺(きよみずでら)と同じである。 この木の柱の上に、せり出すように舞台が造られており、これもまた清水寺と同じである。 舞台からは山の斜面に並ぶ伽藍を一望でき、私が行ったときには、向かいの山も含めてきれいに色付いた紅葉を楽しむことが出来た。 本堂は大きな造りで、構造はかなり複雑である。 まず、現在の本尊である十一面観世音菩薩像(じゅういちめんかんぜおんぼさつぞう)が安置されている中心部分を内陣(ないじん)と言っている。 その外側に屋根付きの内舞台というホールのような空間があり、更にその外側に、写真にある舞台がせり出している。 この内舞台と外に突き出した外舞台を合わせて礼堂(らいどう)または外陣(げじん)と言うと、寺の案内にあった。 私が行った日には内舞台で、同じ宗派の若い僧侶有志による奉納太鼓演奏をやっていた。 奉納太鼓とは言うものの、演奏者も観客もコンサートの乗りである。 厳粛な宗教行事以外のことでも使えるスペースなのだろう。 こうして見ると、よく考えられた構造であり、工夫次第ではお寺の活動にも広がりが出来る。 ちなみに、本尊にお参りをする人は、内陣と外陣の間を通る通路のような空間で拝観することになる。 この日はたまたま本尊の十一面観世音菩薩像の特別拝観というのをやっており、なんと本尊の足元まで行って直接足を触れるようになっていた。 面白そうなので、信心のない私も参加してみた。 最初のご本尊は銅板法華説相図だったわけだが、現在は十一面観世音菩薩像ということになっている。 パンフレットによれば、道明上人が僧院を開いた90年ほど後に、聖武天皇の勅願により徳道(とくどう)上人がこの観音像を山の東の丘に祀ったとされている。 観音像は近江の国の楠の霊木を用いて3日間で造り上げられたとあるが、高さは10m以上あり、巨大なものである。 この観音像により、平安時代になって長谷寺は観音信仰の中心的存在として広く貴族の信仰を集めて栄えることになる。 そしてその信仰は、後世になって武士や庶民にも広まり、西国三十三所(さいこくさんじゅうさんしょ)巡りの中心的なお寺として今でも多くの参拝客を集めている。 ご本尊が銅板法華説相図のままだったら、長谷寺の運命は変わっていたかもしれない。 さて、そのありがたい観音像を間近で見ようと、本堂の脇から内陣に入る。 身をかがめないと歩けない舞台裏のような廊下を進むと、観音像の足元の狭い空間に出る。 その大きな足を触って願いを唱えればかなうというのがお寺側の説明で、毎年この特別拝観を実施しているせいか、足の部分は金箔が剥げてテカテカに黒光りしている。 足元から見上げるとすごい迫力で、その高さが実感できる。 通常の拝見だと、この上半身辺りを格子戸の向こうから眺めて拝むことになる。 足に触って拝んだ後は、右回りで観音像を一周するしきたりのようで、じかに仏像を見上げながらぐるりと回る。 囲いも何もない巨大な仏像を目の前で眺められる滅多にないチャンスである。 仏像の背後なんてなかなか見る機会がないが、こうして見てみると、後ろ側は仕上げが荒めになっているので木製だということがよく分かる。 仏像の特別拝観といってもなかなか食指の動かない私だが、これは面白い体験だった。 本堂を出た後は山の中腹を巡りながら境内を見て周ったが、かなりの広さなのでウォーキングにはちょうどいい。 お寺からもらったパンフレットには、参拝ルートとして開山堂ルート(所要30分)と奥の院ルート(所要40分)の道案内が地図に記されているが、当然のこととして両方回る。 最初は奥の院ルートを周ることにした。 本堂の脇からスタートして、昭和59年に建立された弘法大師御影堂(こうぼうだいしみえどう)の前を通り、本長谷寺(もとはせでら)へ出る。 ここが、最初に道明(どうみょう)上人が僧院を開いたとされる西の丘の場所である。 そのすぐ横に五重塔があるが、これは先に述べたように戦後に建てられている。 昭和に建てられた二つの建物に挟まれて、最も古い長谷寺発祥の地があるというのも面白い構成である。 この五重塔のそばに、三重塔跡というのがあり、礎石だけ残っている。 長谷寺には元々三重塔があったが、明治初期に落雷に遭い消失したらしい。 その後三重塔は再建されなかったが、戦後になって戦没被災者慰霊のためにこの五重塔を建てたようだ。 三重塔の再建という形にならなかったのは、慰霊碑という新たな性格ゆえ、別の形で塔を建てる必要があったということだろうか。 五重塔から先はほとんど観光客のいないエリアで、墓地と納骨堂がある。 奈良時代創建のお寺で一般の先祖供養もしている例は、あまりないのではないか。 更にその先に長谷寺の塔頭寺院である陀羅尼堂(だらにどう)があり、ここから道は下りになる。 下り切ると登廊の脇に出て、そこを南に行くと修行のための本坊がある。 長谷寺というのは屋根付きの登廊があるせいか、本堂全体を見渡せる場所が少ない。 こうして歩いている道も、木々が邪魔をして本堂は垣間見える程度である。 そうした中で、本堂をきれいに見渡せる絶好のエリアが、この本坊である。 冒頭の写真もこの本坊から撮影したもので、たくさんの人たちがカメラを構えていた。 私はたまたまルート通りに回っていてこの場所を発見したが、本坊に通じる道の脇から出口に向かう西参道が延びているので、多くの観光客は本坊には寄らずに帰ってしまう。 惜しい話だ。 さて、ここからは開山堂ルートに乗り換えて、一旦降りた道を別ルートで本堂まで上がって行く。 写経殿である六角堂の脇を上がり、開山堂の前に出る。 この開山堂に、先ほど述べた徳道上人が祀られている。 長谷寺を観音信仰の霊場として売り出した功績を考えると、中興の祖と言えるかもしれない。 国宝の銅板法華説相図を奈良国立博物館に譲ったことから見て、道明上人の方はやや冷遇されているのだろうか。 本堂に戻ると奉納太鼓演奏は終わっていた。 もう一度外舞台に出て、のんびりと紅葉を楽しむ。 ハイシーズンとは言え、この程度の観光客で済んでいるのならラッキーと思わねばなるまい。 この数日後にたまたま京都へ行ったおり、昼休みに近くの南禅寺を少しばかり覗いたが、観光客であふれかえっており、京都と奈良の人出の違いを実感した。 南禅寺の紅葉も美しかったが、ここ長谷寺で静かに眺めた紅葉の方が心に残った。 私が行った時期はもみじまつりをやっていて紅葉見物の客で賑わっていたが、長谷寺の売りは紅葉だけではない。 むしろ花の寺として有名で、高浜虚子も「花咲かば堂塔埋もれつくすべし」の句を詠んでいる。 とりわけ登廊の両脇を牡丹の花が埋め尽くす5月が、最も見物客で賑わう時期だと聞く。 その数、150種7000株と寺の案内にある。 「牡丹の長谷寺」の異名もあるそうだ。 この牡丹は、唐の第21代皇帝僖宗(きそう)の妃だった馬頭夫人(めずぶにん)が、美しくなりたいと長谷寺に願掛けをし、そのお礼に牡丹を送ったのが始まりであるらしく、それを植え継いで今の数になったとされている。 馬頭夫人の願いが本当にかなったのかどうか知らないが、長谷寺の登廊の脇に馬頭夫人を祀る小さな社がある。 長谷寺は牡丹以外に、四季折々の花を楽しめる。 お寺のパンフレットには、各月ごとに鑑賞できる境内の花を列挙しているが、1月の寒桜、冬牡丹、さざんか、蠟梅に始まり、2月以降、福寿草、梅、椿、雪割草などが並び、その数は数十種類と驚くばかりの多さである。 桜も有名らしいが、3月の寒緋桜、大島桜、河津桜から、4月の山桜、染井吉野、奈良八重桜、紅枝垂桜、鬱金桜、御衣黄桜まで、たくさんの種類が長きにわたり咲き誇るようだ。 花の好きな人なら、四季折々いつ訪れても楽しかろう。 さて、奥の院ルートと開山堂ルートを周り終えて、このまま登廊を降りて帰っても良かったのだが、登廊の途中にある脇道を東に進み、「二本(ふたもと)の杉」を見に行くことにした。 この杉が何であるかを理解するためには、源氏物語(げんじものがたり)に通じていなければならない。 長谷寺は、平安時代に多くの貴族に崇拝されていた寺で、源氏物語のほか、清少納言(せいしょうなごん)の枕草子(まくらのそうし)や菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘の手になる更級日記(さらしなにっき)、藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母による蜻蛉日記(かげろうにっき)など、数々の古典文学に登場する。 おそらく作者たちも参詣していたはずで、紀貫之(きのつらゆき)の歌碑も境内に残っている。 さて、源氏物語だが、二本の杉が登場するのは玉鬘十帖の先頭に来る、第22帖「玉鬘(たまかずら)」である。 主人公の光源氏(ひかるげんじ)に愛された夕顔(ゆうがお)は、内大臣頭中将(とうのちゅうじょう)との間に玉鬘という娘をもうけるが、玉鬘が4歳の時に夕顔は死霊に獲りつかれて亡くなる。 その後玉鬘は乳母に連れられ筑紫の国に移り住み成長するが、地元豪族との望まぬ結婚から逃れるため、ひそかに京にのぼり、死んだことを知らぬまま母との再会を果たそうとする。 一方、夕顔の侍女であった右近(うこん)は、夕顔の死後、光源氏に仕えていたが、夕顔の忘れ形見である玉鬘を探していた。 右近は、長谷寺参詣のために海柘榴市(つばいち)に泊まるが、ここでたまたま玉鬘一行を見つける。 その際、右近が詠んだ歌に二本の杉が登場するのである。 「二本の杉の立ちどを尋ねずは ふる川のべに君を見ましや」 これに応えて玉鬘が 「初瀬川はやくのことは知らねども 今日の逢う瀬に身さへながれぬ」 と歌を返す。 この後、玉鬘は光源氏に引き取られ、数々の公達の求婚を受けることになる。 右近が長い間探していた玉鬘に会え、それによって玉鬘が幸せになれたのは、長谷寺の観音様のご利益によるものという背景があってのエピソードであり、それだけ長谷寺が人々の信仰を集めていたことが伺える。 この玉鬘の話は、後に金春禅竹(こんぱるぜんちく)の謡曲「玉鬘」にも登場する。 この謡曲については二本の杉のところに案内板があったが、長谷寺詣での僧侶の前に玉鬘の霊が現れ、二本の杉の前に僧侶を連れて行って、自分が母の侍女だった右近と巡り会えた話をするというストーリーである。 二本の杉の先には、藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)の碑と息子定家(ていか)の塚がある。 藤原定家は「新古今和歌集」の撰者で、「小倉百人一首」でも有名である。 新古今和歌集には定家が詠んだ長谷寺ゆかりの歌もある。 年も経ぬいのるちぎりは初瀬山 尾上の鐘のよその夕暮れ さて、この辺りを散策していると、誰でも気になる大きな銀杏の木が、向かいの山に見える。 この大銀杏は、ここだけでなく長谷寺の色々な場所から見えるため、観光客の目を引いていて、指差したり写真を撮ったりしている人も多い。 この大銀杏は、長谷寺の脇を流れる初瀬川の対岸にある素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の境内に生えている。 長谷寺のホームページでも紹介されていたもので、あまりの大きさに、見た瞬間、あぁこの銀杏のことを言っていたんだなとすぐに気付いた。 写真に写っている建物と比べると、その大きさが実感できるだろう。 単に大きな銀杏というだけではなく、この銀杏は別名「玉鬘の大銀杏」と呼ばれていると、長谷寺のサイトに記されていた。 先ほどの源氏物語の中で、長谷寺参詣に来た玉鬘一行が滞在した宿坊がここにあったとされているほか、玉鬘が晩年に隠棲した「玉鬘庵」もこの近くだったようだ。 せっかくだから、大銀杏を見に行こうと考え、長谷寺の東参道を麓まで降りて道路に出る。 初瀬川を遡るように川沿いを歩き、銀杏のある山の麓で橋を渡って神社に向かった。 橋を渡った先には案内板が2つあり、一つは素盞雄神社、もう一つは玉鬘庵跡と記されている。 手前の玉鬘庵跡を先に見ようと、竹やぶに続く石段を登って案内板の先を見ると、竹やぶの前に草地があり、そこが玉鬘の庵があった場所ということのようだった。 続いて素盞雄神社に向かう。 大銀杏の美しさに惹かれてか、玉鬘の大銀杏の話を聞いてかは知らないが、鄙びた小さな神社のわりには訪問者が途切れない。 写真右奥が素盞雄神社で、手前左側が玉鬘の大銀杏である。 銀杏のところに案内板があるが、ここには「初瀬のイチョウの巨樹」と紹介され、これが天然記念物に指定されている旨が記されているだけで、玉鬘のことは全く出て来ない。 よく考えれば当たり前のことかもしれないが、玉鬘は源氏物語の中に出て来る架空の人物で、従って、彼女が晩年を過ごした庵も現実には存在しなかったのである。 どういう根拠でここが玉鬘の宿坊や庵の跡だと推定されたのか知らないが、まぁ夢があると言えば夢がある。 源氏物語ファンならずとも、そう聞けばちょっとは関心を持つだろう。 やはり長谷寺自体が、平安朝の文学にたびたび登場するがゆえ、こんな名所が出来上がっているのだろう。 そろそろ日も傾きかけて来たので、駅に向かって参道を戻り始めた。 混雑する車の間をすり抜けながら参道を進み、来た時と同じところを回って国道を横断する。 その先の坂道と階段を登り、駅を目指した。 予想していた通り、長谷寺境内をウロウロし、山を昇り降りした後でこの長い階段を上がるのは、いささかうんざりする。 最後の階段の手前に来た時、前を歩いていた高齢の男性が上を見上げて「まだ階段があるのか」と嘆いておられた。 車で来るにせよ、電車で来るにせよ、長谷寺参詣はなかなか大変である。 この日の歩行距離は7km程度。 熊野古道を歩いた翌日だけに、これぐらいがちょうど良いと感じた散策だった。 C 休日画廊/Holidays Gallery. 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EDに効くツボまとめ24選!40代の男性機能を自分で治す方法!

ぜん ちく と みた ろう 写真

中国江南の旅 中国四川省大周遊 (2016. 24ー5. 30) 四川には以前から訪ねたいと思っていた。 四川の省都 成都は劉備、諸葛亮ゆかりの地であるし、近くに世界遺産の 九塞溝、黄龍の景勝地があるし、四川の辛口中華料理を味わえる。 この年のHISの広告に従来よりも安価な四川旅行ツアー を見つけ行くことにした。 中国四川の旅の地図 四川全体と九塞溝) 成田発8:50 発で空路、成都へ。 成都には直行便で約6時間で13時50着の予定が13時過ぎには着いた。 成都は東京とほぼ同じ 1200万人の大都市、大規模な都市建設に見えるが交通は渋滞、車は北京に次いで多いそうだし、電動自転車が多い。 違いは 公共交通機関の差だ。 実際、地下鉄の建設ラッシュが進んでいた。 先ずはホテルに行き小休止の時間があったので近くを ぶらついた。 地図上でホテルの位置 を確認し、賑やかな十字路を目指すと道路の下に諸曷喨の蜀の時代の記念碑を発見した。 ツアーは成都最初の観光として、成都で最も大きな都市森林公園で、古代史人の彫像詩歌など四川の文化特色 を持ち合わせた公園である浣花渓公園に向かった。 実はガイドブックでかなり調べたがこの地名が出てこない。 しかし、ホテルでもらった地図には杜甫草舘の名で見つけた。 ここでは、今から遡って3000年前の春秋戦国時代までの詩人 とその詩が順に刻みこまれた道に沿って読み歩きを楽しんだ。 杜甫草舘は杜甫が四年間住んだ館で、入る時間が無かった。 夕食は丸テーブルで四川料理だったが味付け良く、坦々麺は汁がほとんど無かったが美味しかった 成都の地図 成都空港到着、現地ガイド劉さん 成都のホテル向陽大 ホテル近くの道路下の万里橋 電気自転車が多い かん花渓公園の石道 杜甫草堂 2日目の朝、ホテルから40分バスで成都パンダ繁育研究基地に到着。 中は広大でカートで移動した。 本日は雨で傘をさしての 見物。 パンダは暑さに弱いが雨や寒さに強いので本日は問題ない。 パンダは年代別に飼育されてる。 このあとは九塞溝に向かう長旅でバスはぐんぐん高度を上げて行く。 度々起こる地震の対策としてかなりがトンネル道だっ たし、2008年地震で大被害を受けた羌族の部落をみた。 5時間走って高度1600mの茂県のホテルで昼食したが、 このホテルは2日後に泊まる予定。 5時間の道のりだ。 その途中、成都から蘭州までの新幹線建設工事が着々と進行しているのを見て5年後に完成予定と聞き、中国の凄さに驚いた。 松藩古城は中央の王朝と辺境の交易地として栄え、また係争の地として2300年の歴史を持つ町。 チベット人は馬を売り、茶を 買った。 北の城門の前に、チベットと唐の友好を狙った政略結婚、ソンツエンガンポと文成公主像があり、明代の県城を復元 した城門の中に入り、チベット族の民族衣装や民芸品を売る店が並ぶ中を散策した。 5時間の行程。 成都パンダ繁殖研究基地入口 パンダ5匹 ヤクに乗せる商売 茂県ホテルで昼食 こんな山奥で新幹線建設中 松藩古城入口の北の城門(奥) 南北路の土産物街,奥が南の城門 山の上の西の城門 ここでも新幹線建設中 ハワードジョンソンテンゲンリゾート ホテルのロビー 3日目は朝食後、いよいよ九寨溝観光。 九寨溝は、中国四川省の奥地にある透き通った水が流れる美しい峡谷。 原生林の生い茂る峡谷に大小100以上の湖沼や瀑布が点在している。 1970年代に森林伐採の労働者によって発見 されるまで知られることのなかった秘境。 辺り一帯が石灰岩質の地層が浸食されて出来たカルスト地形であるため、 湖沼の底に沈殿した真っ白な石灰成分(炭酸カルシウム)が太陽の光を反射することで、空の色を色彩豊かに映し 出す神秘的な景観となる。 朝食後、九塞溝に向かったが、バスを駐車した場所から入口ゲートまでは10分ほど歩く必要がある。 歩きながら 九塞溝からの清流と汚れた川(白水)が合流する所がある。 70歳以上は無料、以下は110元とかなり年寄り優遇だ。 ゲートに入ってからは小型バスで中をまわるのだが、バス待ちの長蛇の列を見つつ、我々は団体扱のためか直ぐに バスに乗れた。 この入口が標高2000m、標高3100mの長海が最も高地となる。 最初に訪ねたのが諾日朗瀑布と鏡海で、ここを中心として、高地側に日則溝 にっそくこう と則査窪溝 そくさわこう の2つの観光ルートが有り、反対側に樹正溝 じゅせいこう という観光ルートが有る。 諾日朗瀑布は標高が2300mにあり、高さ25mだが幅が320mもあり、近くに行くとかなり迫力があった。 最初の海が 鏡海だったが風が少しあり残念だった。 五花海は広く貸衣装も多く大勢が 五花海の美しさを堪能していた。 樹正群海はもっと上から眺められたら素晴らしかっただろうなと残念に思った。 見るものを圧倒させる数々の絶景はまるで童話の世界でした!観光後、ハワードジョンソンホテルへ。 途中、4007mの峠にて岷山山脈の主峰雪宝頂5588mを眺望した。 黄龍は九寨溝から山を隔て、より高所に位置し、世界遺産です。 黄色がかった乳白色の石灰岩層が 棚田状に連なり、その上を美しいブルーの澄んだ水が流れる姿が山脈をのぼる黄色い龍にたとえられます。 五彩池は光線の具合で色が変わり、晴れた日なら深い青色に見え、曇りの日なら白みがかり色に見えるという。 黄龍観光は標高3100mから六人乗ゴンドラで3450m地点まで上り、以降は約4時間のハイキングをすること になっていたが、高地歩きの高山病対策として、ポータブルオキシゲンが支給された。 帰りはゴンドラを使わず約四時間の歩きで帰る計画だ。 ゴンドラを降りてからはきちんと整備された木道を 暫く歩くと展望台に出た。 ここから山の眺めは最高だが、肝心の黄龍はやや水不足が見て取れる。 更に2キロ歩くと標高3550mの五彩池 ごさいち に上るか、下に降りるかの分岐点に出た。 我々は当然上る。 途中からライトブルーのえも言われぬ美しさの五彩池が現れ、五彩池を取り囲むように歩いた。 五彩池と黄龍寺と遠景の山々のの取り合わせは誠に見事であった。 しかし、ここから下って歩くにつれて、 水の少ない5月に訪れた残念な思いが大きくなっていった。 争艶彩池 そうえんさいち など今一つだった。 6月にかなりの雨が降り、7月以降は全体が五彩池のような美しさになり、九塞溝に勝るとも劣らないのだそうだ。 都江堰は、紀元前3世紀に戦国時代の秦国の蜀郡の 太守 李冰(りひょう)と息子の李二郎が川の氾濫を防ぐため作られた、世界最古の古代水利施設。 紀元前 3世紀にこんな設備を作るとはとはまさに驚きです。 岷江に石籠を積み上げて中州を作り、外江はそのまま流し、 内江の流れを灌漑用水として取り込み更にいくつかの用水路に分け成都平原に流した。 中州の先端は「魚の嘴」 と言い、中州の後端は飛沙堰と言い洪水対策になる。 こうして 岷江の水は成都平原5300m2を潤し、成都を 肥沃な大地に変えた。 最初に高所である二王門から秦堰楼に入り坂を降りて、二王廟に至った。 二王廟は李親子を称えるために 南北朝時代に建てられた。 ところで我がビデオが真っ白く写ってしまう問題が二王門で発生し、この原因が わからず直せたのは中州に渡った後であったので、都江煙の全体鳥瞰図とりに失敗した。 楽山大仏は高さ100mの世界最大級の大仏で世界遺産。 大渡河と青衣江が凌雲山の下で交わり岷江となる地点は、 古来より水害が多発する地点で、凌雲寺の僧であった海通が水害を鎮めるために大仏の建立を思い立ち、90年ほど 経った803年に完成した。 あまりに大きいので、対岸の楽山港から遊覧船に乗り、遊覧船から全景を眺めた。 船でなく、楽山大仏の上の山からから階段を下りて、大仏の正面に出て再び階段を上る人々も大勢いた。 都江堰の地図 秦堰楼の前で 二王廟(李冰の廟) 二王廟(李二郎の廟) 中州へのつり橋 魚の嘴、岷江を外江と内江を分ける 中州に使った石籠のサンプル 内江の右が中州、左から灌漑用水を取り込む 楽山の地図 涅槃像に見える 楽山大仏 6日目は朝食後、中国四大仏教名山のひとつで古来より仙境(仙人の住む場所)と考えられてきた、峨眉山風景区 に行った。 峨眉山は成都の南西160kに位置し、楽山大仏と合わせ世界遺産となった。 3099mの高い山であり、登山はせず、 麓の報国寺に入場した。 黄龍渓は1700年を越す悠久の歴史がある川西古鎮。 全長約350mぐらいの沿道に並んだ建物がすべて明、清時代の建築風格 をそっくり真似て造られ、川劇や皮の影絵人形、飴細工など昔の蜀文化の実演や民間行事のイベントも時々行うようだ。 日曜の休日だったためか中は大勢の人でごった返していた。 特に渓流で水鉄砲など水遊びをする子供たちが多く 私も子供の土産に水鉄砲3丁買った。 夕食は名店「陳麻婆豆腐」にて本場の麻婆豆腐だったが、夕食後、四川名物、変面ショーを見た。 瞬時に変面 する技は素晴らしく、楽しんだ。 峨眉山 報国寺 普賢殿 黄龍渓 明清の建物 水鉄砲 変面ショー劇場 変面ショー 変面ショー 陳麻婆豆腐の店 7日目は朝食後、武候祠観光、錦里散策に出かけた。 両者は隣あっていてまず錦里を散策した。 錦里は 2004年に蜀漢時代の町並みが再現されたもの。 名前の由来は漢代に錦産業が発達した成都のことが 錦の古里と読まれたからだという。 骨董品、書の道具などなどが売られていて楽しかった。 英国の首相も ここを訪れたらしく、著名な書道家と一緒に収まった写真があった。 書道具として、小筆や 結構大きな 水書き毛筆練習シート 名家文房第5寶)(10元)を五枚買った。 このあとは武候祠に向かった。 ここは中国最大という。 「漢昭烈廟」の門を入った中に「武侯祠」がある。 「漢昭烈廟」とは劉備玄徳の霊廟という意味であり、劉備の諡号が昭烈なのです。 「武侯祠」は武候が諸葛亮 孔明のことであり、この場所には二人が同時に祀られている。 しかし「武侯祠」がこの地の名称であり、通り まで同名で呼ばれているのは、主君の劉備玄徳より諸葛亮孔明の方が人気があり、彼のの祠として認識されて いるということだ。 ここには後世に蜀漢の武将なども祀られるようになった。 皇帝と臣下が一緒に祀られて いるのはここだけという。 入口を入るとまず劉備玄徳の像があり、その手前に龍飛、関羽などの臣下の像がある。 諸葛亮は武候伺 の門を入った所にいる。 玄徳は笏を持つが、孔明は臣として笏は持たず、トレードマークの羽を持っていた。 三国志が得意な現地ガイドの説明はかなり熱が入っていた。 最後に劉備の陵の周囲180mを回ったのが今回の 旅の最後となった。 現地係員と共に成都空港へ。 成都15:20発 直行 空路、帰国の途へ。 成田:〜21:00着。 着後、車で自宅へ。 錦里、絹の里 各種毛筆がぶら下がり キャメロン首相が錦里に来た 書画屋の極太筆 漢昭 劉備玄徳 武候祠 諸葛孔明 劉備の陵の門 劉備の周囲180mの陵 ・中国四川の旅 総括:• 四川は行ってみて初めて、これほどバラエティに富んで、訪れる価値のある所はそうそう他にあるものでは ないと痛感した。 九塞溝・黄龍という3000m高地にある秘境は比類もない美しさだし(黄龍はもう少し遅く行けば 良かったとの思いはあるが)、都江堰では古代の途方も無い知恵を目の当たりにできたし、成都の武候祠や錦里では 三国志の漢を懐古出来たし、松藩古城などで中国の多くの民族間の関わり合いを見ることができた。 辺境での新幹線建設や、世界遺産・国立公園のレイアウティングを伴った大規模な整備、都市公園の整備など が着々となされている姿を実際にこの目で確認できた。 高速道路は既に日本を上回る密度で整備されているし、 新幹線も5年後には密度で日本を上回るであろう。 日本の遅々たる現状を見ると、日本ももう少し、言いたい放題の個人の自由を制御して、活力ある日本を作れ ないだろうかと思ってしまう。

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